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2019/05/13 

校長のお話 5月

チャペル礼拝「誕生カード」ヨハネによる福音書9章1~3節

今年からみなさんに誕生カードを書いて渡すことにしました。
前の学校では毎月50~60枚平均書いていましたが、清和に来てぐっと減りましたので、ついでといっては何ですが先生や職員の人たちにも書くことにしました。
カードの言葉は、その人が私の目から見たらどのように映っているのか、そしてどのような学校生活を過ごしてほしいかを書くようにしています。
ただ、誕生カードですから、出だしは当然「お誕生日おめでとう」です。
でもそれを書きながら、誕生カードをもらって、どこがおめでとうなのか、どうして生まれてきたことがおめでたいといえるのか、勝手なことを書かないでほしいと思っている人もいるだろうなと思っていました。
もうずいぶん前のことになりましたが、それが実際に起こりました。
誕生カードを受け取った高校2年生の1人が校長室にやってきたのです。
その2年生の思いと私との言葉のやり取りはだいたい次のようなことでした。
2年生によると、自分の小学校高学年から今まで、お誕生日おめでとう、といわれると心の中ですぐに反発したくなる。
今まで、生きていてよかったと思えることはほとんどなかった。
それもあって子ども時代の写真はたいていブータレ顔だった。
それを母親に指摘された時は、責任はあんたにもあるんやと、いいたかった。
周りの人の昔はよかった、できることならその時代に戻りたいという言葉を聞くと、心の中でとんでもない、絶対に戻りたくない、反射的に打ち消したくなる。
言葉遣いがきつかったこともあって、何の気なしにいった言葉で相手を傷つけることもよくあった。
自分は友だちになりたくないと思う典型的な人間である。
それが他人なら付き合わなくても済むが、自分自身になるとそうはいかない。
だから、こんなしんどい思いをするなら生まれてこなかった方がよかったと思うことがある。
それでもそうした思いを打ち消しながら必死に生きてきた。
にもかかわらず人は必ずその人の寿命が来れば死ぬ。
死ぬとわかっていながら生きていかないといけない。
何のために生まれてきたのか、何のために生きているのかよくわからない。

そう考える自分に、校長は誕生日おめでとう、と書きどのように生きてほしいかを書いた。
誕生カードを書いてくれた以上、納得できる答えをしてほしい。
誕生カードを渡したために、私はえらくきびしい言葉で文句をいわれたのです。
こういう場面に出くわしたら、ふつうは何を文句いうてるんや、文句があるならカード捨てたらええんや、となるでしょうか。
でもその時の私は、その2年生に共感したのです。
それは私もそういう思いを持って子ども時代、学校生活を過ごしてきたからです。
ですから表面的には難しそうな表情をしていましたが、心の中では思わず微笑んでしまいました。
この子、ええ子やなあ。
こういう子がこの学校に来てくれたんやな。
神様が送ってくれたんやな。うれしいなあ。
大事にしたらなあかんなあ。
2年生は私からこれといった答えを引き出せると考えたのでしょうか。
それとも、それ見たことか、そんな答えしかないのか、と反論するために待ち構えていたのでしょうか。
「すまん。オレにもようわからへんのや。今もずっと考えているんや。そんでわかったと思ったら。その次にはそれ以上にわからんことが出てくるんや」。
2年生は大人の答えに思えない、いい加減にしか聞こえない言葉に、噛みついてくるのかと構えましたら、大きく息を吐いていったのです。
校長先生にもわからないのですか。わかりました。安心しました。

今日の場面で弟子から質問されたイエスはどちらでもない答えをしました。
「神の業がこの人に現れるためである」はその場にいた人たちにとって想定外だったでしょう・
目が見えないとの不自由さがなぜ神の業、わかりやすくいえばいいこと、恵みなのだということを表すことになるのか、そうなのかとは思いますが、やっぱり違うと思ったりするわけです。
イエスは確信があってこう答えたのでしょうか。
イエスにもよくわからなかったのかもしれません。
私にはイエスの言葉が人にはわからないことがある、わからないことがあっていい、といっているように聞こえるのです。
でも同時にわかるのは、イエス自らが私の代わりに十字架につけられことによって、私という存在がとても大切であるということ、生きる意味があることを教えてくれていることです。
その2年生が何をわかったのか、そして何に安心したのかです。
それは自分のことについて自分が悩むことです。
悩んでいいだとあらためてわかったというのです。
2年生は自分の生きる意味と自分が生きている社会のことについて、自分自身の言葉で考え抜くことをしていかないといけないのですね。
それが自分の生きている意味ですね、といいました。
確かにそうです。
そのために私たちは子ども時代若い時に、時間をかけて学ぶのです。
そのために学校があるのです。
そうすると、学びは誰か他の人のためではなく自分のためにすることだと納得できます。
そして聖書には、ややもすればすぐに悩んで暗くなる、生きることや周りとの関係が嫌になりがちな自分が、どうしたら救われるか、いきいきとやっていけるか、を考えた人たちの言葉が書かれているのです。
繰り返しますが、イエスはあなたを、つまり私を救うために、身代わりとなって十字架で死んだと書かれています。
イエスは私にはそれだけの価値があるということ身をもって示されたのです。
自らの存在をかけて、それを伝えようとしたことに信頼して、私も精いっぱい生きることで応えたいと思うようになったら、それを最高の生き方と呼ぶことができます。

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