礼拝の話

2020/03/10 

3月9日(月)聖書 マタイによる福音書 6章34節

思わぬ休校でどのように毎日を過ごしているでしょうか。

たくさんの課題に、こんなことならば普通に学校で授業を受けたほうがよかったかも…、自分のペースで課題を進めることができるからよかった、とこの1つの事柄を挙げても受け取り方はそれぞれでしょう。

私たちはそれぞれ、自分が生きてきた年月の中で物事を考えます。

今、この時にどうすべきか、何に集中するべきかを考えることは、何歳になっても考えなければならないことでしょう。

経験や体験だけで賄えない部分を、本や映画、音楽など様々なものを通して身に着けます。

そうして身につくものを教養といいますが、教養はすぐに役立つものではないことが多いでしょう。

点数につながらないこと、結果として表れにくいもの、そのようなものが多いように思います。

しかし、それらは確実に私たちのなかで実になって、何かのふとした拍子にその人の雰囲気を形作るものになります。

変化の激しい時代に新しいものが次々と登場し私たちの心を動かしますが、最後に戻る先は、そのような目新しいものというよりは、昔からあったもの、目新しさはないけれど、やっぱりこれね、と思うようなものではないでしょうか。

物があふれ、便利さと引き換えに、本当に大切なものを見失わないようにしていかなければ、私たちはどんどん自分自身の時間、命を削ることになるように思います。

今週半ばには3月11日が来ます。2011年3月11日、東日本大震災から丸9年となります。

失われた多くの命や当たり前だった現実が急に閉ざされることを思い返す時です。

このことは南海トラフ大地震が予想されている私たちのこれからの生活に関係がないはずがありません。

当たり前のことを当たり前に過ごせる今日を大切に、今できることを1つずつしっかりとすることが一人ひとりに求められています。

新型ウイルスによる休校という、今までに経験したことがない現実も、一人ひとりが自分の健康や家族の命について考える大切な時とすることができれば有意義な時でもあるでしょう。

「人間は考える葦である」とパスカルは『パンセ』の中で言いました。

人間は自然の中で最も弱いものであるけれども、考えることができることにその強さを見出しました。

不幸になるために悩み、考える人はいません。

誰しも幸せを望んで悩み、苦しみ、考えるでしょう。

その考え方を学ぶのが、この中学、高校という大切な時です。

私たちは他でもない自分に苦しめられることがよくあります。

なんでこんな自分なんだろう。なんでこんなに…。こうだったら…。

いろいろな思いの中で、自分一人の思いや考えだけでは思い至らない部分に気づいたり、人間関係を通していろいろなことを身に着けたりしていきます。

嫌なことを通して、新たな発見をしたり、学んだり、できないと思ったことを通して、新しい自分の才能に気づくこともあるでしょう。

考えることは生きることです。

よく考えるためには、知識も経験も体験も必要です。

2019年度も、まもなく終わりを迎えます。

どのようにこの1年を振り返るかを考える時です。

今朝の聖書の箇所は「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」といいます。

明日のことを考えなくてもよい、とは言われません。

明日のことは明日、私たち自身が悩み考えるのです。

その中で、その日1日を精一杯に歩むことが求められているのだと思います。

今日1日をどのように歩むかをしっかりと考えて過ごしたいと思います。

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