礼拝の話

2020/07/14 

7月13日(月)聖書 創世記 2章7節 校長 小西二巳夫

3月までの朝ドラ「スカーレット」は信楽焼の女性陶芸家の話でした。

陶器は長い時間をかけて窯の中で焼きあげられます。

焼きあがっても売り物にならないと判断されたら壊され捨てられます。

彼女はその壊された陶器の山の中に気になるカケラを見つけました。

それは彼女の人生の宝物になりました。

カケラが人生の宝物になるのは、彼女が貧しい境遇を嘆いたからではありません。

カケラによって自分を磨いたからです。

自分の中にある本当の宝物である才能や生きる力、さらに陶芸を深めるために必要な心をみがいたのです。

「みがく」には「磨く」と「研く」があります。

「磨く」は柔らかい布でやさしくつつむという感覚でしょう。

「研く」は鋭い刃物で削り、一見傷つけているようですが、それによって表面がつるつるになります。

彼女は2つのみがきによって陶芸の才能を開花させました。

生きる道を拓いていったのです。

彼女は何の価値もないように見える陶器のカケラに自分を重ねました。

今日の聖書の箇所は「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。

土の塵、何の値打ちもないものに、神はわざわざ命の息を吹き入れられたというのです。

聖書の言葉から何がわかるでしょうか。

たとえ土の塵のように思われる自分であっても無限の価値がある、ということです。

生きる境遇、見た目、役に立つか立たないかではありません。

そうしたことに一切関係なく、一人ひとりは宝物のような存在、それが聖書の人間観です。

この言葉から私たちに何が求められているかがわかってきます。

カケラ、土の塵のようだからと自分を壊したり、見捨てたりすることではありません。

誰かに比べて自分に値打ちがないとあきらめることでもありません。

自分の中に確かにある宝物、与えられた才能や生きる力を見つけみがくことです。

清和で働く私や学ぶ一人一人にはみがくための方法が与えられています。

それは毎朝のチャペルです。

礼拝するためにチャペルに集まり、一緒に讃美歌を歌い、一緒に聖書の言葉をたどり、一緒に話を聞き、一緒に祈ります。

同時にチャペル礼拝はそれぞれが一人になった考える時間です。

礼拝は自分に無限の価値があることを確かめる時間、「自分探し」の時間です。

自分の中になる価値を言葉によってみがく時間です。

チャペル礼拝で出会う言葉にはさまざまなものがあります。

弱った心や体が布で包まれるように慰められることも、身も心も削られるような厳しい言葉に出会うこともあります。

それによって人間性がみがかれます。

厳しい言葉によって光り輝くことになるのです。

チャペル礼拝を通してみがかれるのは生徒だけではありません。

清和は教職員も同じように自分自身を厳しく磨かれ研かれているのです。

期末試験を前にした今週1週間、まさに自分みがきの時です。

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