礼拝の話

2025/01/23 

1月14日(火) 聖書 ローマの信徒への手紙 12章13~18節 校長 小西二巳夫

川村元気という人の小説に「世界から猫が消えたなら」があります。

主人公は郵便配達員をしている30歳の僕です。

2週間ほど前から体調がすぐれない僕が病院に行くと、思いもよらない「脳腫瘍でステージ4」との診断を受けました。

医者の突然の余命宣告に僕はピンと来ないまま家に帰りました。

絶望的になっている僕のところに、自分は悪魔だと名乗る人物が現れます。

悪魔は僕に「あなたは明日死にます」といい、呆然とする僕に悪魔は「何か一つを消す代わりに命を一日延ばす」という提案をしました。

そんなうまい話があるはずがないと疑う僕に、悪魔は旧約聖書創世記の一番初めの天地の創造の話を始めます。

主人公の僕はこの話についつい乗ってしまいます。

やり取りが進み、最後に悪魔が提案してきたのは、本のタイトルになっている世界からネコを消すというものでした。

悩んで悩んでどうしたらいいかわからなくなっている僕に、別れた恋人が母親から預かっていたという手紙を渡します。

そこには愛する息子である主人公、僕の10の素敵なところが書かれていました。

手紙の最後には、素敵なところを忘れずに生きるように、それさえあればあなたも周囲の人も幸せに生きられるはず、だからあなたの素敵なところを持ち続けてほしいとありました。

母親が素敵なところと思っていたのは、ぼくの強いところではなく、弱いところでした。

そして母親が何より素敵と考えていたのが、主人公の僕が「人が悲しい時に、一緒に泣くことができる人であり、人がうれしい時に、一緒に喜ぶことができる人」というところでした。

それは聖書ローマの信徒の手紙12章で、パウロが言っていることと同じです。

パウロはイエスの生き方がまさにそうであったこと、そのイエスの生き方に自分も倣って生きてきたとの強い思いを持っていました。

その自分の人生は間違いなく幸せに満ちていると言うのです。

ここでしっかり考えないといけないのが「共に泣き」「共に喜ぶ」「共に笑う」相手が誰かということです。

誰と共に泣くのか、誰と共に喜ぶのか、誰と共に笑うのかです。

その誰とはイエスが愛そうとした人、大切にしようとした人か誰かを思い浮かべることではっきりしてきます。

イエスは「貧しい人々は幸いである。悲しむ人々は幸いである」と言いました。

ということは、その誰とは今自分の周り、そういう立場に生きる人だということになります。

今の時代、自分の周りにとは、距離だけの近さ遠さではありません。

たとえ国は違い遠く離れていてもウクライナで、パレスチナのガザで命を脅かされながら生きなければならない人の様子はテレビやインターネットのニュースなどでタイムラグなしに、時間的なずれなしに知ることができます。

ということは、その人たちも共に泣き共に喜ぶ相手、一人なのです。

そうすると、その人がたちが泣いているのを見て見ないないふりするのは、主人公僕の母親の言葉でいうと、自分から幸せを消すことになるのです。

母親が素敵といった、僕が悩んで、悩んで、最後には正しい答えを出すことができたのは、それは僕が悲しむ人と共に悲しみ、喜ぶ人と共に喜ぶことのできたからです。

この1年を、自分もぜひそうした生き方をする自分でありたいと心から願います。

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