礼拝の話

2020/01/21 

1月20日(月)聖書 イザヤ書 50章5~7節 校長 小西 二巳夫

「神さまとおしゃべり」という本があります

平凡なサラリーマンのみつろうが主人公です。

上司に勧められた瞑想をしていた時、突然聞こえてきた声とのやりとりがあります。

嫌なことをあげていくみつろうに声は、ではそれをしなければいいじゃないかと答えます。

そして最後は、ご飯食べなかったら死んでしまうというけど、それなら死ねばいいじゃないか。といいます。

みつろうは「あんた正気か、あんたからなぜ死ぬことを勧められなきゃならないの」と怒ります。

すると声は次のようにいいました。

「死にたくないのか。それがお前の望みじゃな。叶っているではないか。お前は今生きている。生きるためにご飯を食べたい。食べるために給料をもらいたい。給料をもらえとる。給料をもらうために、会社に就職したいとお前は願ったんじゃな。全部叶っておる。今、お前はあこがれの会社員じゃないかい。おめでとうみつろう君」。

こんな風に言われて、みつろうはそうかもしれないと思います。

会社に行きたいと自分で願っておきながら、会社に行きたくないと同時に願っています。

会社を学校に置き換えたらどうなるでしょうか。

皆さんにとって、それは他人事ではなく、自分のことになります。

正反対のことが同時に起こるわけはありません。

この声はさらに言います。

「その人の現実に、その人が望んでいないことは何一つとして起こらない。この世はすべて、その人の望み通りじゃ。そしてすべてが叶っている、幸せなのに、その事実に気づけない人が自分は不幸だと思い込んでいるだけだ」。

自由に生きたい、というのは人間の究極的な希望であり、願いです。

それがすでに実現していることを教えてくれるのが、キリストの十字架です。

生きているといろいろなことが起こります。

中1なら13年間、高3なら18年間、いろいろなことが起こるわけです。

人間の持つ癖に、自分をわざわざ不幸な方向にもっていこうとすることがあります。

その癖のために、自分を不幸だと思い込むことが少なくありません。

そこで大事なのは、その出来事を「神さまとおしゃべり」の中で、その声が逆からたどり、すべての出来事がみつろうの願い通りであったと説明したように、イエス・キリストが私たちを救うために十字架にかかられ、それによって私たちは自由に生きることができるようになったということを出発点に今の自分を考えると、これまでの一つ一つの出来事、そしてこれから起こる一つ一つの出来事がすべて私が、私たちが幸せになるために起こるということがわかってきます。

それを出発点にして、新しい一週間を新しい気持ちで始めましょう。

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