礼拝の話

2021/01/18 

1月15日(金)聖書 マルコによる福音書 4章26~29節 社会科 山脇

年末から年始にかけて、数年に1度の寒波がやってきました。

3学期は、厳しい寒さに耐えながら、少しずつ暖かい日差しを感じられる季節へと変わっていく時期にあたります。

この時期、学校の玄関にはパンジーやビオラがきれいに咲きます。

パンジーは花が散り、種を付けだすと「自分の役割はこれで終わり」と感じ、花をつけなくなるので、この時期は、花が散った茎をきちんと取ってあげることが大切になります。

そうしないと、一番咲き誇る時期に、パンジー自らがその役目を終えて、花をつけなくなるからです。

せっかく芽を出し、花をつけたパンジー、ビオラですから、暖かくなるまで、精一杯お世話をして、たくさんの花をつけてほしいと願っています。

この厳しい寒さを地面の中で過ごす花もあります。

その代表が、チューリップです。

寒い冬を、土の中で過ごし、暖かくなると芽を出し、茎を伸ばして、春には色とりどりの花を咲かせてくれます。

1年で1番寒いと思うこの季節は、チューリップにとって、新しい季節に向けて少しずつ根を伸ばし、栄養を蓄えて、芽を出す準備をする大切な期間です。

4年前の今日、父が亡くなりました。

約4年間、病院で過ごし、入院当初こそ自分で食事を摂ることもできていましたが、次第に食事も摂れなくなり、点滴だけで栄養を補うこととなりました。

好きなものを食べられない、飲めない、好きな所に自分の足で歩いて行けない、そんな状態が3年ほど続いたのですが、その間に父の心境に変化がありました。

入院当初は、そのようなことはなかったと思うのですが、自分でものを食べられなくなった頃からでしょうか、母の勧めに応じて教会の先生に来てもらい、聖書の話しをしてもらうようになりました。

驚いたのは、父が旧約聖書の物語やイエス・キリストと弟子の話しをよく知っていたということです。

教会の先生にお話しをしてもらったあと、「今日の話は聖書で読んだことがある」とか、「この話は映画で見たことがある」ということが結構あったそうです。

話しを聴くだけでなく、疑問に思うことを次の機会に尋ねるといったこともあったようで、父の知らない一面に気付いたような気がしました。

父はもともとクリスチャンではありませんでしたが、家族の見ていない所で聖書を読み、映画を通して聖書の話しを良く知っていたのです。

その父が、母の勧めとはいえ、教会の先生から話をしてもらうようになったのは、近づく「死」というものを、しっかり受け止めようとしたからではないかと思うのです。

2014年10月に、父は病床で洗礼を受けました。

父が洗礼を受けた日、学校帰りに病院に寄って話をした際に、「これで自分がどこに行くのかが分かった」「これで家族が一緒にいられる」という父の言葉は、今でも忘れることはありません。

寒い時期に土の中で芽を出す準備をする球根のように、父は長い時間をかけて、芽を出し、花をつける準備をしてきたんだなぁ、と思いました。

洗礼を受けた年齢は74歳ですから、決して若いとはいえませんが、だからこそ、しっかりと栄養を蓄えた球根のように、一気に信仰という花を咲かせられたのだと思うのです。

今日の聖書箇所には、種がどのように成長するのかを私たちが知らなくても、土はひとりでに実を結ばせるとありました。

神の蒔いた信仰という種は、あらゆる場所、あらゆる人に注がれていて、その種は土から栄養をもらって育っていくことを今日の聖書箇所は教えてくれます。

人がどんなに努力しても、土に栄養がなければ、種が芽を出し、花を咲かせることはできません。

土に栄養があってこそ、種は栄養を蓄え、茎を伸ばし、花を咲かせることができます。

この栄養を与えてくれるものこそ、イエス・キリストであると聖書はいいます。

父が神への信仰へと導かれたのは、土の中の球根のように、長い間準備をしてきた父の信仰という種に、イエス・キリストが栄養を注ぎ、芽を出させ、花を咲かせてくれたのだと思います。

今は1年で最も寒い時期であるとともに、新型コロナウィルスの感染拡大も相まって、様々なことを我慢し、耐えなければならない時期かもしれません。

しかし、そのような時も、私たちが芽を出し、花を咲かせることができるように、神は必要な栄養を与えてくれていると思います。

その栄養をしっかり心に蓄え、成長させてくださる神に感謝して、残りの3学期を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

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