清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2021/01/26
「おとうと」というタイトルの小説があります。
幸田露伴の娘、幸田文が書いた、今から60年近く前の作品です。
小説には、弟がグレ始めたとあります。
グレるの語源は「はぐれる」、群れから離れることです。
群れから離れる、はぐれる、グレるとなります。
グレる原因は本人に問題があることは否定できませんが、群れからはぐれると考えた時、それはハジカレる場合も少なくないわけです。
理由もわからないまま、ハジカレることからイジメが始まるわけです。
そう考えるとグレた弟が悪いとは必ずしもいえないのです。
3歳年上の姉である主人公はそれがわかっていただけに、切なくて、なんとかしてやりたくて、弟を一所懸命守ろうとします。
この小説にはキリスト教のことが重要な場面、場面で出てきます。
一番の理由は新しく母親となった人がクリスチャンだったからですが、母親が馴染みにくい人であったためにキリスト教も馴染みにくいものでした。
だからといって、主人公もキリスト教には全く無関心だったのではありません。
それは、清和がキリスト教の学校であり、そこに入学した自分がキリスト教とは無関係であるとは言えないのと同じようなものです。
ある日、主人公は母親に頼まれて買い物に行き、その買い物先で、突然刑事らしき人に呼び止められ、別室に連れていかれそうになります。
主人公は突然のことでびっくりし、自分が万引きの犯人にされたと思って抵抗します。
刑事は似た雰囲気の家出の女性を探していて、主人公をその人と間違えたのでした。
主人公は慌てる刑事とデパートの係員を前に、勝ち誇った気持ちになりました。
履物をそろえるように言ったその時、彼女の手に触れたものは時計の鎖の先に下げてある十字架でした。
小さな十字架に触れた瞬間、主人公の勝ち誇った心はみしっと音を立てて崩れます。
主人公はそれが人間の思い上がりに対する神の裁きに思えたのです。
たとえどのような理由があるにせよ、そういう思い上がりを持つこと、高慢な態度をとることを神は決して許さないことを主人公は思い知らされるわけです。
その一方で全く逆の出来事もあります。
弟が結核の病状が進み、自分が死ぬとわかった時から、弟は本当の自分、内面的な素直さ、すばらしさを見せ始めます。
その弟を目の当たりにして母親は「あたしは今日決心してきたんだけど、碧郎さんに信仰を勧めようと思って、信者にして天国へやりたいと思って、でもあの子はいい子になってて、お祈りもいらなくなっている、わたしよりイエスさまの方が先にあの子を救ってくださって」。
神は私たち一人ひとりに限りない無償の愛を注いでくださる方であるということです。
この2つの出来事から分かることがあります。
神は弱さの中にあり、救いを求める人間に対して無償の愛を注がれます。
その一方で、人間の思い上がりにはこれ以上ない厳しさを持って裁かれることです。
私たちは神の愛と裁きの間を生きているのです。
神の徹底的なやさしさとこれ以上ない厳しさの間を生きているのです。
もっと厳密にいえば、その間を生かされているのです。
自分の力で生きているのではなく、神の力に生かされている、そのことにしっかり気づくところに、私たちの幸せな人生があるということです。
清和の学校生活も、それをしっかり意識することから喜びが生まれ、充実していきます。
生かされて生きている自分をしっかり自覚しながら、新しい1週間を過ごしていきましょう。