礼拝の話

2021/01/27 

1月27日(水)聖書 マタイによる福音書 18章21~22節 日本キリスト改革派 高知教会 小澤寿輔牧師

ある学生さんから牧師と話をしたいと連絡があり、教会に来てもらいました。

「聖書の教える『赦し』とは、どのようなものなのでしょうか」と言うのです。

その質問に至った理由を聞いたり、質問に答えたりして充実した時間を過ごしました。

私たちは幼少の頃から「相手が謝ったら赦す」と教えられてきたのではないかと思いました。

つまり、「謝罪」という「条件付きの赦し」です。

では、聖書は「赦し」について、どのように教えているのでしょうか。

今朝の聖書の箇所では、弟子のペトロが、イエスのところに来て「人が自分に対して罪を犯した場合、何度まで我慢すれば良いですか。相手を切り捨てるまで、何度まで赦せばいいですか」と尋ねました。

興味深いことに、ペトロは赦すべきことをわきまえているのです。

しかし、ペトロは「回数」にとらわれていて、「ここまでは赦すけど、その限度を越えたら赦さなくてもよい」という「境界線はどこにあるのですか」という質問をしました。

それに対して、イエス・キリストは「数えるのをやめて、際限なく、何度でも赦しなさい」と教えておられるのです。

このような赦しこそ、「天の国」での交わりの特徴であり、神の赦しが無限であり、無条件であることが示されています。

「無限に」とは、赦しの限度を決めて、それを越えないなら赦すのではなく、何度でも赦すということです。

また、「無条件に」とは、相手の態度を見て、「借りを返したら赦す」とか「謝ったら赦す」とかいうのではなく、「相手がどういう態度であれ赦す」という、憐みの赦しです。

このような「無限で無条件の赦し」によって、「あなたが神に赦していただいた罪の大きさに比べれば、人があなたに対して犯し得る罪など、比較にならないのだ、だから、あなたも赦しなさい」と教えておられるのです。

また、ここで示されている赦しの姿は、「自分が赦されるために人を赦す」という自分を中心とした「条件的な行為」ではなく、「自分は赦されたのだから、相手も積極的に赦します」という遜った姿勢なのです。

そうは言われても、自分を傷つけた相手を赦すのは、とても難しいことでしょうか。

「赦せない」、「赦したくない」と、神に反発したくなります。

そのような葛藤の中に置かれるときは、その相手ではなく、神を見上げましょう。

相手を赦すか赦さないかを考える前に、まず、自分の罪をすべて赦してくださる神に目を向けて、感謝し、神との関係をガッツリと築きましょう。

その後で、相手の赦し方を教えていただきましょう。

なかなか赦せない人を赦そうとして、苦しみもだえるあなたに、主の祝福と御助けとお導きが豊かにありますようにお祈りします。

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