礼拝の話

2021/01/08 

1月8日(金)3学期始業礼拝 聖書 詩編 149編1~9節 校長 小西二巳夫

新しい年になりました。

新しい年になると多くのものが変わります。

その一方で、変わらないこともあります。

私にとってかわらないのは、ほぼ毎朝行っているランニングです。

10kmちょっとを1時間かけて走ります。

早くもない遅くもない、そのスピードを私はほとんど変えません。

そのスピードで走ると頭の中が動き出すからです。

あれこれ考えが浮かんでくるのです。

暮れの12月28日のことでした。

5~6m先のアスファルトに何か落ちているのが見えました。

ストライプ柄のネクタイ、レジメンタルタイでした。

しかも、きちんと丸まって落ちていました。

新型コロナウイルス感染問題が深刻な今、他の人の持ち物に触れたくはありません。

そのまま走り抜けたのですが、どうも気になります。

すっきりせず、何かもやっとした感じが湧き上がってきたのです。

そこで、少し通り過ぎてから戻ることにしました。

そのままにしておいたら、車のタイヤにつぶされて汚れるのは確実です。

バイクや自転車の人が事故に遭うかもしれません。

もし落とした人が探しに来たら、すぐ見つけられるように堤防の鉄のはしごに括りつけました。

そして、また走り始めながら、いろいろと考えました。

私に関係ないネクタイのことで、なぜあれこれ考えることになったのか。

それは、私と直接関係ないネクタイを通して、自分のことをあれこれ思い出したからです。

小学1年生の時、朝慌てて出たためにマフラーを落として、そのことで母からひどく怒られました。

その時の母の情けなさそうな顔を今でも思い出すことができます。

マフラーは忙しい母が、仕事の合間をぬって編んでくれたものでした。

妻からクリスマスプレゼントの手袋の片方を3日後に落としたことがあります。

その日は、妻と言い合いになり、いってきますも言わずに無言で家を出た日でした。

落としたことを素直に入れない私は、同じ手袋を買って知らん顔をしていました。

何事もなかったように済まそうとしたのですが、後ろめたさは消えませんでした。

そういう自分がだんだん情けなくなってきました。

大切な人を裏切っているとの気持ちが強くなり、2週間後に事情を話し、謝ったのを思い出しました。

ネクタイをなくした人にどのような事情があったのかはわかりません。

けれど、そこで思うのは、世の中で起こることで私に無関係なことは何もない、何かどこか必ずつながっているということです。

実は私たちは、そのような存在として造られているのです。

私に関係ないことは何もない、との生き方を徹底したのがイエス・キリストです。

イエスは私たちにそのような感覚をもって生きることの大切さを、身をもって教えてくれたのです。

それはお互いがそのような感覚を大切にできたら、今の世の中、もっと生きやすくなる、気持ちよく過ごせるようになるからです。

新型コロナウイルス感染問題がますます大きくなる今、他の人のために私ができることというのは、大きなものから小さいものまでいくつもあります。

小さくてわかりやすい例がマスクです。

自分がなぜマスクをするのか、第一の目的は他の人の安全と安心のためです。

それが結局自分を大切にする、感染からお互いの身を守ることになります。

次の日の朝、あの場所にはネクタイはありませんでした。

ネクタイが他の人ではなく、落とした人の手元に戻ったら嬉しいと思いました。

新しい1年が自分と周りの人にとって、できる限り穏やかなものにしたいものです。

穏やかな1日が過ごせる、穏やかな気持ちになる、そのことが一人ひとりにとって、どれほど大切なことなのか、身にしみてわかる今、真剣に取り組む自分でありたいものです。

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