礼拝の話

2019/10/01 

10月1日(火)聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章6~7節 校長 小西二巳夫

しばらく前の映画に「先生と迷い猫」というものがあります。

タイトルが気になって観ました。

主人公は内気で口下手なのに見た目や歩く姿もあって“校長先生”と呼ばれている中学校の元校長先生。

そして、亡くなった奥さんが餌をやり可愛がっていた野良猫の“ミイ”。

奥さんが亡くなってもミイは毎日のようにやってきますが、ミイをみると奥さんを思い出して寂しくなる先生は、ある日、猫のくぐり戸を塞ぎます。

ミイは諦めて行ってしまい、先生はホッとしたような気持ちになりますが、やがて自分が大切なものを失ったことに気づきます。

小さな野良猫が毎日の生活に欠かせない存在であったことがわかったのです。

そして、探し始めます。

探している最中にいろいろな人とミイとの関わりが見えてきます。

役場のお兄さんから「なぜ先生になろうと思ったのか。先生になって楽しかったのか。」と尋ねられます。

「楽しかった。少なくとも校長になる前までは。子供たちは手をかけてやればやるほど成長していく。」と答えます。

手をかける、というのはキリスト教の言葉にすると、愛するということです。

人は愛されることによって成長でいるということです。

猫探しの最中に、腰が痛くなり、空腹も相まってひっくり返った先生を介抱してくれた美容院のおばさんがこう言います。

「校長先生も変わったね。」

先生がそれまで、自分を変えることができなかったのは、自分に手をかけていなかったからだということです。

本当の意味で自分を大切にする、自分を愛することができていなかったからです。

自分を大切にするということは自己中心的になることではありません。

周りの人への気遣いをするということです。

そして、周りの人を受け入れることです。

先生はミイという小さな存在を受け入れようとしたときに、自分の希望が実現し始めたのです。

それは今日の聖書の言葉でいうならば、成長させていくださるのは神さまです、ということが具体化することです。

そこに私たちが大切にしなければならない真理と毎日の生活があります。

本当の意味で自分を大切にすることの大切さ、それをぜひ自覚したいと思います。

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