礼拝の話

2020/10/28 

10月28日(水)聖書 フィリピの信徒への手紙 4章13節 日本キリスト改革派 高知教会 小澤寿輔牧師

10月31日になると私は田内千鶴子さんという人のことを思い出します。

田内千鶴子さんは1912年(大正元年)10月31日に高知市で生まれ、1968年(昭和43年)の10月31日に亡くなられた、韓国の孤児救済のために生涯を献げたクリスチャンです。

1938年、日本が朝鮮を統治していた時代に、今の韓国南部の木浦という所で尹チホというキリスト教の伝道師と結婚し、自分の国、自分の家族を離れて、韓国の幼い孤児を救うために夫婦で孤児院を建てて働きました。

朝鮮戦争で夫が行方不明になってしまってからは一人で3千人の孤児を守り育てました。

3千人の子どもたちを養うために、毎日リアカーを引いて家々を回り、食べ物を人々から恵んでいただくのは、どれだけ大変なことだったでしょう。

彼女は「田内千鶴子」という日本名を捨てて「尹ハクチャ」という韓国名を名乗り、日本の着物を捨ててチマチョゴリに身を纏い、日本語を一言も話さず、徹底的に自分を捨てて、生涯にわたり子供たちを愛して育てました。

その民族を越えた愛によって、彼女は「韓国孤児の母」と敬われ、1965年には、韓国の文化勲章国民賞を、日本人として初めて受賞しました。

1968年10月31日に56歳で亡くなったとき、木浦市は初めて市民葬を行ったのですが、その葬儀には3万人が駆けつけ、田内千鶴子さんの死を悼み、心から泣き悲しみました。

このようなお話を耳にするとき、「いったい、どうしてこのような偉業が成し遂げられたのだろう」、「いったい何がそこまで千鶴子さんの心を駆り立てたのだろう」と思わされます。

これには色々な要因が関与していますので、一概に「こうだ」と言えるものではありませんが、一つ言えることは、彼女がクリスチャンだったということです。

田内さんのお母さんは、日本キリスト改革派高知教会の会員でしたから、お母さんから受け継がれた「イエス・キリストへの信仰」が、このような実を結んだのだろう、と言うことができます。

千鶴子さんの娘さんのお話によりますと、千鶴子さんは、どんなに疲れていても、毎日夜になると聖書を読んでから床に就いたそうです。

そして、「神さま、どうぞこの子たちをお守りください」と毎日熱心に祈っていたそうです。

3千人もの子供たちを愛し育てるという精神、助けを必要としている一人の人を喜んで助けるという愛の精神、これは、母親から受け継いだ「キリスト教信仰」による「愛の実」だったのです。

千鶴子さんの人生の大半は、悩み、苦しみ、悲しみ、寂しさや不安との戦いであったと思います。

けれども、どのような苦境に立たされても、内側からはいつも「肯定的な力」が湧き起り、愛の業に徹することができました。

これだけのことを成し遂げられた田内千鶴子さんを心から尊敬する人は多くいますが、千鶴子さんは人々から称賛を受けてもそれらをすべて拒否し、まことの神さまにすべての栄光をお返ししていました。

田内千鶴子さんのお誕生日と命日を迎えるにあたり、私たちもまことの神さまへの信仰に生き、聖書によって支えられる人生を求める者となりたいと願います。

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