礼拝の話

2020/10/29 

10月29日(木)聖書 ヨブ記 11章17節 国語科 田野

「しかし光のない暗(やみ)もあるでしょう」

芥川龍之介の作品「歯車」の中で、主人公の「僕」が言った言葉です。

自分の親にふりかかった困難のことを知っている老人と、信仰に関する話をしていて、「若し影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」という言葉を老人からかけられます。

その言葉に対して、主人公の「僕」は「光のない暗(やみ)もあるでしょう」と答えます。

希望の見えない困難の中を歩いていて、そこから抜け出すことができないということを述べようとしているのです。

なぜ起こったのか自分自身が説明できない出来事に出会うと、私たちは誰でも身動きがとれなくなってしまいます。

今朝お読みした聖書の箇所に出てくるヨブは「東の国一番の富豪」です。

財産はあるけれども、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてい」ました。

ある日、サタンが「全財産を奪えば、あなたを呪うにちがいない」と神をそそのかします。

そこで、神はヨブから、財産、子ども、そして彼の健康をも奪います。

それでもなおヨブは、神に対する信仰と信頼を失いませんでした。

そのような時にヨブを慰めるために友人たちがやって来ますが、議論を交わすことになります。

友人の一人が「人生は真昼より明るくなる。暗かったが、朝のようになるだろう。」と言います。

しかし、この言葉は「よこしまなことを遠ざけ」ることができれば、希望があります、という意味です。

「悪いことはしていない」と言うけれども、実は分かっていないだけではないか、と問いかけています。

友人は、ヨブにとても厳しい言葉を投げかけてしまったのです。

社会にはいろいろな人がいます。

「していい」と言われていないのに、勝手に物事を行ってしまう人。

そのことに見てないふりをしている人。

その陰で、自分も巻き込まれてしまうのではないか、と不安になる人。

「なぜ苦しまなければならないのか」と理不尽な思いでいっぱいになることもあります。

そして周りにいる人の中には、「なんとかしたい」「力になりたい」と思っている人もいると思います。

私なりに、できることをいくつか考えてみました。

一つ目は、「その人のことを理解するだけにして、特に何もしない」。

二つ目は、「その人のことを理解しているということを、相手にも分かってもらう」。

三つ目は、「その人のことを理解して、その人のためになることを実際に行う」。

ここまで考えてみて、これはどれも難しいことだ、と思いました。

「その人のことを本当に正しく理解できているのか」「その人のために本当になるのか」「もし間違ったことをしてしまったら、自分のせいで状況が悪化するのではないか」考えたら、きりがありません。

私は改めて考えてみました。

そうして出てきた答えが、「その人のことを理解していることを、相手に分かってもらうことを考えずに、ただそばにいる」でした。

あまりにシンプルな答えです。

見かけ上は、何もしていないのと同じですが、ただ自分のことを分かってくれているかもしれない人が「そばにいる」ことで、安心感が得られるのです。

何も特に変わったことはしていません。

人によって作られた、自分の居場所の意味がとても大きいのです。

困難にぶつかった友人に、「何かしてあげたい」「何か言葉をかけてあげたい」と思うかもしれません。

すぐに何も思いつかないなら、そばにいてあげましょう。

「もしかしたら、自分にも何かできたのでは」などと思い悩む必要はありません。

その人のために、「そばにいる」という選択ができたのだから、それでいいのです。

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