礼拝の話

2019/11/14 

11月14日(木)聖書 エフェソの信徒への手紙 4章18節 家庭科 青柳

先日、盲導犬を引退した犬に関するボランティアの案内を各クラスに配布しました。

このボランティアは知り合いの先生から声をかけてもらってたものですが、その先生からお話を聞くまで視覚障がいを抱えた方や盲導犬について、あまりにも知らないことばかりで恥ずかしくなりました。

盲導犬は特別な訓練を受けて認定された犬のみがなることができます。

視覚障害を抱える人たちにとって、盲導犬とは自分の目となり一心同体の存在となります。

「身体障がい者保護法」という法律で盲導犬は認定されており、様々な施設・機関で同伴ができるにも関わらず、不衛生・他の客に迷惑という理由で入店拒否や交通機関の利用拒否があるそうです。

ある盲導犬ユーザーの方がこのようなお話をしていました。

「盲導犬がいれば、自由にどこへでも出かけることができます。盲導犬は私たちのパートナーであり、目のような存在です。その目をふさがないでほしい。」

受け入れ拒否をする場所は、犬を拒否しているのであって、障がいを持つ人を排除しているのではない、と主張することが多いそうですが、盲導犬と一体の暮らしを選択することで、積極的に社会参加の機会を増やそうとしている人たちにとって、盲導犬を否定されることは、自分のライフスタイルを拒否されたのと同じ気持ちになります。

先程の「身体障がい者保護法」は盲導犬などの受け入れを義務付けしているだけでなく、盲導犬ユーザーや訓練・認定する側にも社会に受け入れてもらうための徹底した行動管理や衛生管理を同じように義務付けています。

盲導犬をどうするか、という前に、拒否され、戸惑い、たたずむ視覚障がいを抱える人たちがいることに思いを馳せるべきだと思います。

ボランティア活動などで、誰かや何かの「自分らしく生きる」ことに寄り添うとき、大切にしなければならないのは、まずは「知る」ことだと思います。

今回、盲導犬の話を聞いた時、自分がいかに「無知」であるかと思い知らされました。

知らないままの私だったら、入店拒否したお店のように盲導犬とペットとして飼われている犬を同じように考え、視覚障がいを持つ人のライフスタイルを否定するようなことにつながってしまうかもしれません。

「無知」「知らない」ということは、偏見を生んでしまったり、間違ったとらえ方をしてしまうことがあります。

まずは「知る」こと、「知ってもらうこと」が一人ひとりの生き方を受け入れ合う社会のスタートになるのだと思います。

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