礼拝の話

2024/12/03 

11月20日(水) 聖書 マタイによる福音書 7章7節 社会科 藤村

チャペルクリスマスまで1か月を切り、聖誕劇の練習も本格的に進められています。

通っていた幼稚園にも聖誕劇がありましたが、園児にも分かりやすいように歌や踊りを交えた構成で、清和の劇には無い役もあったことを思い出しました。

例えば、星の役、マリアとヨセフが訪ねる宿屋の女将と、そこで働く若者の役などです。

私は、女将役の子と仲良しだったので、お家に遊びに行ったときにその場面の練習を一緒にしていました。

トントントン、と宿屋のドアを叩き、出てきた女将に断られてしまうと、たとえ劇の練習でも少し悲しくなってしまします。

そんな小さい頃の記憶もあってか、今日の聖書箇所には、少し疑問を持っていました。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

マリアとヨセフ、そしてイエス自身も門を閉ざされたのに、なぜそれをすべきだと言うのだろう。

歳を重ねるごとに、求めたのに与えられなかったという経験が増えていく一方なのに、と。

しかし、去年の卒業生たちが好きな聖書箇所として挙げていたのをきっかけに、改めてこの箇所を読むと、「求め、探し、門をたたく自分自身のあり方を考えることが重要なのかもしれない」と解釈が変わりました。

今年は、自分自身を見つめ、認め、進む道を考える高校2年生の日々を応援するつもりで、学年通信のテーマにもしています。

今年度大切にしているこの箇所が、最近になって、更に深く腑に落ちたことがあります。

今年の9月に、上野にある東京国立博物館に足を運んだときのことです。

当日券に朝早くから並び、わくわくしながら向かったのは、内藤礼という芸術家の、『生まれておいで、生きておいで』という特別展です。

展覧会の名前である『生まれておいで、生きておいで』には次の英語があてられています。Come and live, go and live.

誰からのメッセージなのでしょうか。

作者の意図は分かりませんが、大きな存在に包まれているような安心感のある響きだと思います。

今日の聖書の続きには、「天の父が良い物を与えてくださる」という言葉があります。

あらかじめ備えられている良い物がある。

それに気付くことができるかが問われているのだと、ふと思いました。

迷いの中から、用意されている道へと出発する。

歩み始めるまでのエネルギーを溜める期間は、暗く心細いかもしれませんが、共にいて見守ってくださる存在があることをおぼえたいと思います。

イエスが馬小屋の飼い葉桶に眠り、貧しく低く生まれたことが、人の弱さに寄り添うことに繋がりました。

清和は、経済的状況と女性だからという理由で弱い立場にあった2人の少女の元にアニーダウドが遣わされ、イエスの教えと導きによって促され、歴史を刻んでいます。

この学校に繋がる一人ひとりがかけがえの無い存在であることは、聖書の言葉によって確かにされています。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

あらかじめ用意されている「良い物」がそこにある。

たとえ今迷いの中を歩んでいたとしても、そこに確かにある「良い物」の訪れを待つ、豊かな時間だと信じて歩みたいと思います。

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