礼拝の話

2019/11/11 

11月11日(月)聖書 創世記 2章7節 平安女学院中高 チャプレン 古本 みさ先生

今朝は「人は何で生きるんだろう」ということについて、思いを馳せてみたいと思います。

ついこの間、生まれたばかりのあかちゃんに会いました。

ところで、生まれたばかりの赤ちゃんの手はどうなっているか知っていますか?

いつもぎゅぅと握っていて、ぐぅの手をしています。

寝てる時も、起きている時も、まるで何か大切なものにぎりしめているようにです。

だんだんと大きくなって自分の意志で動けるようになっていくうちに、徐々にその手が開いていきます。

牧師として、人の死に立ち会う機会が多くありますが、天国へ旅立たれ、安らかな表情としっかりと組まれた手を見ると、この方は今まで探し求めていた大切なものを再び手にして、神さまの元へ帰られるんだと胸の中が熱くなります。

皆さんは何だと思いますか?

私たちが生まれたときに神さまから預かった目には見えない大切なもの、そしていつの間にか手放してしまい。やがてこの世を去るときにまたしっかりと胸に抱いて天国旅立つものとは、何でしょうか。

私たちがこの世界に生きる目的があるとしたら、その大切な何かを探し求めることなのではないか、人生とはその何かをつかんでは放し、つかんでは放し、ということの繰り返しなのかもしれない、と私はそんな風に思ったりします。

私たちは何のために生きるのか、その明確な答えは聖書にもかかれていません。

でも、今朝の聖書の箇所にそのヒントになることがありません。

私たちは大量生産されたものではなく、神さまの手で形作られ、一人ひとりにたいする神さまの命の息が吹き入れられた最高傑作です。

祈りながら、周りの人たちとの出会いを通して、探し求めていきましょう。

イエス様が必ずあなたの隣を歩いて、大切なものを見つけるのを手伝ってくださいます。

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