清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2020/11/12
私たちがここにいる意味は何なのでしょうか?
聖書の中には人々がイエス・キリストに病気を治してもらう話があちこちに書かれています。
今日の聖書に登場する人は38年間も病気で苦しんでいました。
この人はベトサダと言う池のそばに横たわっていました。
そこに多くの病人や体の不自由な人たちがいました。
この池に天の使いが下りてきて池の水を動かす時、最初に水に入った人はどんな病気も治るといわれていたからです。
でもこの人は38年間、その望みを果たすことができずにいました。
この人がイエスさまに出会って、病気を直してもらった時は本当にうれしかったでしょう。
おとぎ話の世界なら「そしていつまでも幸せに暮らしました」で終わります。
でも実際の人生はそんなふうには行かないことを皆さんもご存知でしょう。
イエス・キリストに病気を治してもらった人たちも同じです。
何年か経ってからまた違う病気になったかも知れません。
家族や親しい人に辛いことが起こったかも知れません。
そして年老いて死ぬ日も訪れたことでしょう。
それが普通の人生だからです。
でも、この人には決定的に違うことがありました。
それは人生の途上で、あのイエス・キリストが声をかけてくださった、と言うことです。
表面に見えることは、あのときあのイエス・キリストと言う人に、病気を治してもらった、ということでした。
ちょっとこの人の心の中をのぞいて見ましょう。
イエス・キリストと出会ったために自分の生活はすっかり変わった。
もちろんそれから先も苦労がなかったわけじゃない、家族や親戚のことで苦労もあった、親しかった人と問題が起きたこともあった、貧しい生活の苦労もあったし、何でも楽にうまくいったわけじゃない。
でもここまで恵まれてきたな、と思う。
それもこれもあの日、あのイエスという人が声をかけてくださり、何かが変わった。
何かが決定的に変わった。
イエスという人は治りたいのか、と聞いてくれた。
もう何年も誰もそんなことは聞いてくれなかった。
この病気はきっと治らない、こいつは神に見捨てられたのだ、とみんなに思われていたからだ。
でもイエス・キリストはそんな、人々から捨てられたような私に声をかけてくださった。
それは病に苦しむ自分にとってとても大きな出来事だった。
私たちがここにいる意味は何でしょう?
それは私たちもまたここでイエス・キリストに声をかけられるためです。
一般的に「宗教を信じる」、とか「信仰する」と言うとき、それはその宗教を信じていれば病気にならないとか仕事がうまくいって幸せに暮らせるとか、あるいは悪いことに会わないですむ、と言う風に考える人が多いかも知れません。
でもそんなものは信仰ではありません。
信仰とは生き方です。
どう生きるか、という価値観の問題です。
キリスト教が語るのは「イエス・キリストに声をかけられた者」の生き方です。
イエス・キリストを知って生きる。
それがキリスト教の信仰です。
イエス・キリストに病気を治してもらった人たちは、その時は病気が治ったことを喜んだだけだったかも知れません。
病気が癒される、と言う目に見えるしるしだけに気持ちが行っていたかも知れません。
でもきっとだんだんと、イエス・キリストと出会った意味を理解していったのではないかと思うのです。
あのとき、あの場所で、イエス・キリストが自分に声をかけてくださった。
そのことの意味を深く心に刻んで生きていったのではないかと思います。
私たちもこの清和で神さまに出会いました。
イエス・キリストが私たちに声をかけてくださいました。
そして神さまの愛が私たちみんなを包んでくださっていることを知りました。
もう不安に駆られてウロウロしなくて良いのです。
どんなに落ち込んでいても、どんなに迷っていても、そんな私たちにイエスさまが声をかけてくださいます。
「治りたいのか」と。
そして「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と。
その声に導かれて私たちは何度でも、立ち上がり、前に歩みだすことができます。
毎日毎日、悩み事や困ったことはやってきます。
私たちは日々落ち込みます。
でもイエス・キリストは何度でも私たちに声をかけてくださいます。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と。
子どもの讃美歌に「一人一人の名を呼んで」と言う歌があります。
「一人一人の名を呼んで、愛してくださるイエスさま、どんなに小さな私でも覚えてくださるイエスさま。」
「一人一人を愛されて、うれしい時には喜びを、悲しい時には慰めを、与えてくださるイエスさま。」
今日、一日、清和に集う一人一人が神様の祝福と導きの中を歩むことができますように。