礼拝の話

2021/11/20 

11月16日(火)チャペルデイ 聖書 創世記 3章8~10節 日本基督教団 土佐教会 成田信義牧師

今朝の聖書は、創造物語の中から、神が創られた最初の人間であるアダムとエバの物語の一部です。

アダムとエバは、すべてが満たされているエデン園で、神に創られた者として生きていましたが、これだけは決して食べてはいけないと言われていた木の実、善悪の知識の木の実を食べてしまいます。

それは人が神の領域に入り込むこと、人が神のようになりたがることの始まりでした。

その時、神から隠れるように身を潜めているアダムとイブに、神が最初に語りかけた言葉に注目したいと思います。

「どこにいるのか」です。

「何ということをしたのか」と行為を問うものでありませんでした。

「どこにいるのか」なのです。

神は、人間がどこにいるのかも、何をしたのかも、すべてご存知なはずなのです。

その上で、「どこにいるのか」と語りかけています。

それは「行い」ではなく、「関係」を問題にしているということです。

正常な関係、本来あるべき関係にちゃんと立っているかと、神との関係、人との関係を問われているのです。

そして、この「関係」こそ、聖書がその初めから終わりまで共通したテーマとして、問いかけているものです。

私と神との関係、私と隣人との関係に「思い」を開こう開こうと、聖書は働きかけているのです。

正常な関係に招こう、立ち帰らせよう、滞りがちな関係を回復させようと、私たちの「思い」に働きかけているのです。

「関係」という言葉の前に、誰との関係が思い浮かぶでしょうか。

言い換えるならば、私が本当の私であることを、何が支えてくれているでしょうか。

そこに、自分以外の存在の何ものかを思い浮かべることができるでしょうか。

それは、「関係」に生きているかの点検になるように思います。

私の母は脳の病気で入院し、その後、元気ですがそのまま高齢者施設で暮らしています。

新型コロナの影響もあって、ずっと会えないでいます。

今でも元気ですが、脳の病気が進んで父のこと、私のこともわからなくなっています。

会えない、話せないとい、何も出来ないという歯がゆさは確かにありますが、それ以上に、元気なことを感謝するよりも、私の知っている母はもういないのかと思ってしまうことで、今思うと母との関係を自ら滞らせていました。

ある日、そんな事情を知っている方から、お便りをいただきました。

それは、「手紙 親愛なる子どもたちへ」と題された、文字通り手紙でした。

歌にもなっていることは後から知りました。

この手紙を読んで、思わず涙があふれてきました。

まさに、今、母が私に語りかけてくれているように思いました。

これまでの、私の知っている母はもういないという思いに、この手紙から聴こえる思いが上書きされたかのように、思いが変わったのです。

この手紙のように、聖書は、いつの間にか閉ざしていた私の「思い」に働きかけ、関係を元通りに正常化する語りかけです。

私と隣人との関係だけではありません。

神との関係をこそ、癒そう、回復させようと生きてい働く語りかけです。

今、学校をあげて準備を進めているクリスマスこそ、神との関係、隣人との関係を、本来あるべき関係に正常化するために来られたイエス・キリストを、この歴史的事実をお迎えすることです。

聖書からの「どこにいるのか」の語りかけに聴きながら、クリスマスに備えてまいりましょう。

今、決め付ける「思い」を開かれていきましょう。

もっと、自分のことを大切にしよう、相手のことも大切にしていこう、そう思えるクリスマスでありますように。

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