礼拝の話

2021/11/02 

11月2日(火)聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12~26節 日本基督教団 土佐教会 高橋伸明伝道師

あるコンピューターメーカーに勤めていた会社員の話です。

彼は営業マンとして採用されたのですが、最初の半年間は工場で働く、という研修のプログラムがあったそうです。

工場の開発部門で仕事をしながら、自分の会社の製品は、どういう考え方で、どういうことに役立つために作られているのか、を勉強するわけです。

そして、その後に営業部門に配属されて、実際に販売の仕事を始めました。

開発部門と営業部門の両方を見て、面白いことに気づいたと言います。

それは、工場で開発に携わっている人は、「私たちがこうして物づくりをしているから、営業の人たちは売って食べていけるのよ」と言い、これに対して、営業部門では「俺たちがこうして売っているから、工場の連中は食っていけてるんだ」と言っているのだそうです。

同じ会社の中でこういう風に言い合えるというのは、実はたいへん幸せなことかもしれません。

少し前に見たニュースでは、ある大手の自動車メーカーが、工場の稼働率が悪く、リストラを考えているという話でした。

リストラが行われる工場の従業員の人々は、たいへん元気をなくしているそうです。

「どうぞお辞めください」「あなたは必要とされていません」と会社から言われているわけですから当然です。

今朝の聖書の箇所にも「『お前たちは要らない』とは言えません」(21節)とありますが、まさに「お前たちは要らない」と言われてしまっている人が、現実にいるわけです。

そう考えると、彼が働いていた会社は、それぞれの部門が、自分にしかできないことを誇りに思って、自分たちのおかげで他の部門もやっていけるのだと、と思いながら、結果的に互いを支えあっていたわけなのです。

互いの弱い部分を認め合い、それぞれの強い部分で補い合って「この部分については、わたしがあなたの分頑張るから、一緒に生き残ろう」と言い合えるような、そんな組織・社会が理想なのであり、その理想を捨ててしまってはいけないんじゃないかと思います。

もしここに、自分は他の人よりも弱い、人よりも劣っていることが多いと思う人がいても、「そんなあなたのような人こそが、ここには必要なんだよ」と聖書は告げているわけです。

あなたは「なんでそんなことが言えるんだろう」と不思議に思うかもしれません。

しかし、弱い人にとって生きやすい社会は、強い人にとっても生きやすい社会なのではないでしょうか。

いくら強い人とはいっても、死ぬまで強い人はこの世にはいません。

また、すべての面において強いという人もいません。

みんな自分の弱い部分を知っていて、そこは他の人に助けてもらわないと、社会の仕組みがうまくいかないんだ、ということを分かっている人が、人と本当に仲良くやっていけるのではないか、と思います。

強い・弱いに関係なく、「生きていく権利がここでは守られている」ということは、とてもうれしいことなのではないでしょうか。

弱くてもいい、生きていていい、それを認めることが、本当に誰もが大切にされる世の中を作っていくことではないかと思います。

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