礼拝の話

2020/11/20 

11月20日(金)聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節 国語科 古口

2014年に公開されたディズニー映画「アナと雪の女王」があります。

劇中歌として大ヒットしたのが、「レット・イット・ゴー(ありのままで)」という歌です。

主人公の姉であるエルサが、ありのままの自分ではダメなのだと悩むのをやめてありのままの姿で自分らしく生きていこう、と歌っています。

このように「ありのままの自分でいい」ということはよく言われます。

ありのままでいいなら何もしなくてもいいように思いますが、実際にはいろいろしろと言われるので、なんだか矛盾している気がします。

この矛盾を解決するためには私たちの中にある「二つの自分」を理解する必要があります。

一つは、人からの評価を気にする「社会的な自分」。

もう一つは、生き物としての「いのちの自分」、自分の感じたこと・欲したことから出発して自分が自分であって大丈夫と感じる、いのちまるごと、全部の自分、その存在自体です。

私たちは誰かを評価するとき、外から見てわかる価値で判断しますが、それらの評価項目は、その人の一部分でしかありません。

私たちはお互いにお互いの一部分についての評価することがあっても、その評価はその人のいのちや存在そのものとは分けて考えられなければなりません。

自分という人のまるごとすべてを知りつくすことは、誰にもできません。

聖書には「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」ということばがあります。

私たちのことを知り尽くしている神さまだけが、まるごと全部のその人についての評価を下すことができます。

「いのちの自分」について評価することは、神さまにしかできないことなのです。

人権について考えるとき、この「いのちの自分」、つまり「まるごと全部の自分」「まるごと全部の相手」を意識することが大切なのだと思います。

その人の一部分についての評価と、その人のまるごと全部の価値は別のものです。

その人の一部分についての評価によって左右されない、「いのちの自分」「まるごと全部の自分」を、どのような人にも保障するのが人権です。

誰しも人前では見せられないような「ありのままの自分」を持っています。

しかしそれさえもすべて知っている神さまが聖書を通して、「わたしの目にあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」と言っているのだから、あなたは高価で尊いし、愛されているのです。

ありのままの自分を受け入れることで、相手も愛される存在なのだと分かるようになります。

逆に言うと、受け入れられない相手がいるという人は、自分を受け入れられていないということで、向き合うべきは相手ではなく自分だということです。

私たちは人との関わりを避けて生きていくことはできません。

だからこそ、「社会的な自分」をなしにして生きることはできません。

人との関わりの中で自分らしさを受け入れてもらえてはじめて、自分らしく生きていると思えるのだと思います。

人権は誰もが持っている権利ですが、その権利を持っているということが大事なのではありません。

その権利が守られている、自分が大切にされていると感じて生きられることが大事なのです。

その安心の中で、人は「自分らしく」いられるのだと思います。

今日の聖書箇所には「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」とありました。

人権はたくさんの言葉で、また歴史を通してその重要性が伝えられ、資料もたくさんあります。

でもさらに大切なのは、その心を一人ひとりが持っているということ、そして、その心を行動として形にできるということです。

目には見えない「心」や「思い」を、目に見える「心遣い」や「思いやり」という形で伝えられる人になっていきたいと思います。(

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