礼拝の話

2020/11/10 

11月9日(月)聖書 イザヤ書 1章18節 校長 小西二巳夫

今、世界の共通の話題は、新型コロナウイルス感染問題が一番でしょう。

日本では、日本学術会議の任命拒否問題が話題になっています。

新型コロナウイルス感染問題と日本学術会議の議論をするときに、盛んに参考にされたり引用されたりする言葉があります。

それは74年前、第二次世界大戦が終わった次の年にマルチン・ニーメラーというドイツ人牧師によって語られた言葉です。

「ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、

自分は共産主義者でなかったので、何の行動もおこさなかった

その次 ナチスは社会主義者を弾圧した 私はさらに不安を感じたが

自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった

それからナチスは 学生 新聞 ユダヤ人と 次々に弾圧の輪を広げていき

その度に私の不安は増したが それでも私は行動しなかった

ある日 ついにナチスは教会を弾圧してきた そして私は牧師だった

だから行動に立ち上がった が その時はすべてがあまりにも遅かった」。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはドイツと周囲の国のユダヤ人約600万人を虐殺しました。

同時にナチス・ドイツはドイツ国民の一人ひとりがもつ自由や権利を奪いました。

ナチス・ドイツの政治や方針に反対する人たちを徹底的に弾圧したのです。

この出来事に対して、自分も被害者であったニーメラー牧師が悔い改めの気持ちを込めて書いたのが「ナチスが共産主義者を弾圧した時」で始まる言葉です。

弾圧というのは、支配者がその権力を使って、反対する人たちの活動を押さえつけること、その人たちの自由を暴力的に奪うことです。

ニーメラー牧師の言葉を要約すると、今社会で起きていることに無関心でいること、自分の周りの人への無関心でいることが弾圧をゆるし、更には多くの人の自由を奪うことに「協力」することになるということです。

新型コロナウイルスの最初の感染者が出たのは去年の12月1日、中国の武漢という町でした。

ニュースを見ながら、私たちの多くは武漢の人たちは大変だ、程度の受け止め方をしました。

次に中国全土に拡大しても、多くの人はやはり中国は大変だ、程度の受け止め方でした。

日本国内に持ち込まれ始めた時、国や専門家が何とかしてくれるだろう、大丈夫だろう、自分にはあまり関係のないことと考えました。

最初の感染者が出てわずか3か月後に、日本の学校全部が一斉休校になると誰が想像したでしょうか。

新型コロナウイルス感染問題が学習の遅れを作り出し、学力の格差を広げ、学校生活が例年通りにできなくなると誰が考えたでしょうか。

新型コロナウイルス感染問題に無関心でいる間に、あっという間にさまざまな自由を奪われることになったのです。

それは学校だけのことではありません。

多くの人の命が奪われ、多くの人の仕事が奪われ、たくさんの人間関係が奪われました。

新型コロナウイルス感染問題は今社会で、そして、自分の周りで起きていることです。

ニーメラー牧師は、それらに無関心でいることが、弾圧をゆるし、多くの人の命と自由を奪いことに協力することになるといいましたが、まさにそうなっています。

そして、聖書・キリスト教は、無関心を罪と呼び、無関心な人を罪人と呼びます。

罪人だと言われて嬉しい人がいるはずがなく、そのようなことを言われたら腹が立って当然です。

聖書は「罪人」という厳しい呼びかけをすることによって、無関心な生き方をしないように促すのです。

聖書で言う「罪」は一般的な犯罪のことではなく、人として「するべきことをしない」こと、とるべき行動をとらないで済ますこと、考えるべきことを考えないことで済ますことです。

私たち一人ひとりに求められているセンスと感性、それは社会で起きていること、自分の周りで起こっていることに無関心でいることが罪との意識です。

言い換えると、無関心が自分と周りの人たちの自由と命を奪うことになるとの自覚をもって生きることです。

清和はそのセンスと感性を毎朝の礼拝で養っているのです。(

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