礼拝の話

2019/12/13 

12月12日(木)聖書 ルカによる福音書 2章6~7節 日本基督教団 土佐教会 成田信義牧師

この時期、私は毎年考えさせられることがあります。

それは、お生まれになった主イエスが飼葉桶に寝かされているのは、何故だったのか…ということです。

当時、産まれたての赤ちゃんがベットの代わりに家畜の餌箱である飼い葉桶が用いられることは、珍しいことではなかったそうです。

しかし、子どもの寝床は寝床でも、居場所も手を差し伸べる人もいない子どものための寝床だったのだそうです。

だとすれば、なおのこと、何故飼い葉桶なのでしょうか。

訳ありの婚約者同士だったマリアとヨセフ、「ならず者」扱いされるばかりの羊飼い達、敵でもある隣の国から命がけの旅をして表敬訪問した、当時最先端の学識者である占星術の学者達。

この人たちが手にした、あの「飼い葉桶の赤ちゃん」からの贈物とは、言わば、飼い葉桶の赤ちゃんを前にして、それぞれから引き出されるようにして与えられた「肯定」、「寛容」、「受容」という、心に灯る光だったのではないでしょうか。

「あなたはあなたでよい、あなたはあなたなのがよい」とする「肯定」は、ないがしろにされるいのちへの、神さまのまなざしです。

居場所のない人の居場所になろうとする「寛容」は、思いやりや共感を失いつつあることへの答えです。

互いに認め合っていこうとする「受容」は、相手にのみ変わること求めて硬直した関係における、もう一つの道としてです。

これらの光は決して神々しくはありませんが、どんなに小さい光でも暗闇はそれを呑み込むことはできません。

お生まれになった主イエスが飼い葉桶に寝かされたのは、今度は、私達の心に、たとえ吹けば消え入りそうであっても、暗闇を引き裂く光が、灯るようになるためなのかもしれません。

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