礼拝の話

2020/12/16 

12月16日(水)聖書 ヨハネによる福音書 3章16節 日本キリスト改革派 高知教会 小澤寿輔牧師

もうすぐクリスマスです。

町に出れば、もうあちこち綺麗なネオンの飾りつけがされていて、見ているだけで、何だか心がワクワクしてきます。

クリスマスの主役は、イエス・キリストです。

クリスマスとは、神の独り子イエス・キリストが人となられて、私たちの住む、この地上に降りて来てくださったことを感謝して、イエス・キリストに礼拝する日なのです。

イエス・キリストと一緒にイエス・キリストのお誕生をお祝いするのが、本当のクリスマスです。

イエス・キリストの誕生は、今から約2000年前に日本から遠いイスラエルという国で起こった出来事です。

今朝の御言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」を宗教改革者マルチン・ルターは「小型の福音書」と呼びました。

本当にこの一節に、キリスト教のエッセンス、キリスト教の真理が盛り込まれているからです。

この御言葉は何を教えているのでしょう。

今朝の神の言葉は、「神は、私たちを深く愛しておられる、それで独り子イエス・キリストを私たちの世にお遣わしになり、独り子イエス・キリストを信じて心に受け入れる人は、一人も滅びないで、神と共に永遠に生きるようになる」と教えています。

そのような聖書の話を聞いても「興味ない」と言って、それをなかなか自分のこととして受け取ることのできない人が、この世には大勢います。

私も「興味ない」と言っていた一人ですが、ある詩を読んで「なるほど」と、納得しました。

佐久間彪(たけし)というカトリックの神父さんが書かれた「或るクリスマスの出来事」という詩です。

老いたひとりの農夫が、ゆり椅子に身をゆだねて暖炉の火を見つめていた。

遠く教会の鐘が鳴っている。クリスマス・イブ。

彼はもう長いこと教会に背を向けて生きてきた。

「神が人間になっただと? ばかばかしい、だれがそんなことを信じるものか。」

眼を閉じ、薪のはじける音を聞きながら、彼はまどろみかけていた。

突然、窓ガラスに何かぶつかる烈(はげ)しい物音。それも次々に、さらにさらに烈(はげ)しく。

何事かと、彼は身を起こした。

窓際に立って見たものは、音もなく雪の降りつもる夜闇(やあん)の中に、この家をめざして押し寄せてくるおびただしい小鳥の群れだった。

雪闇に渡りの途(みち)を誤ったのだろうか、小鳥たちはともしびを求めてガラス窓に次々と打ち当たっては むなしく軒下に落ちていく。

彼は、しばし呆然とその有様を眺めていたが、外に出るや雪の降り積もるなか一目散に納屋へと走った。

扉を大きく左右に開け放ち、電灯を明か明かと灯(とも)して干し草をゆたかに蓄えた暗い納屋へ小鳥たちを呼び入れようとした。彼は叫んでいた。「こっちだ、こっちだ、こっちへ来い!」

しかし、はばたく小さい命たちは彼の必死の呼び声に応えず、なおもガラス窓に突き当たっては死んでいった。

農夫は心のうちに思った。「ああ、私が小鳥になって、彼らの言葉で話しかけることが出来たなら!」

一瞬、彼は息を呑んだ! 彼は瞬時にして悟ったのだ。

「神が人となられた」ということの意味を。

彼は思わず、その場にひざまずいた。

今や、人となり給うた神の神秘に満ちた愛が、ひざまずく老いた農夫を静かに被い包んでいた。

彼の上に降りかかり、降り積もる雪は、そのしるしとなっていた。

(カトリック司祭 佐久間彪『或るクリスマスの出来事』)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この救いのメッセージを、魂で受け取りたいと思います。

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