清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2021/02/10
前回、前々回と2回続けて「赦し」について聖書の言葉に聴きました。
今朝の聖書の箇所でイエスは、“敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい”と言いました。
当時、ユダヤの人たちの間では「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられていたそうです。
これは、「仲間同士は仲良くしなさい。でも自分たちに嫌なことをする敵は憎みなさい」という意味です。
しかし、イエス・キリストは「(いや、そうではなくて)、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。
どんなに腹が立っても、どんなに怒りたくても「愛して、むしろ祝福をお祈りしてあげなさい」とイエス・キリストは言っておられるのです。
これを「神の愛」「アガペーの愛」と言います。
でも、どうしてそのようなことを求められるのでしょうか。
今朝の箇所の続き45節に、天の父なる神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」とあります。
神さまは、一部の気に入った人だけに「日の光を照らして、雨を降らせてあげる」と言って可愛がり、悪人には「あなたには日の光を照らさないし、雨も降らせない」というようなことはなさいません。
善人にも悪人にも、公平に愛を注いてくださいます。
「あなたは、神の愛(アガペーの愛)で愛されているのだから、あなたも同様に、神の愛で愛しなさい」と言われます。
でも、自分の人格を否定して悪口を言う人を、愛することができるでしょうか。
いやだなぁと思う人を、愛してお祈りしてあげられるでしょうか。
なかなかできるものではないでしょう。
むしろ「神さま様、あいつをやっつけてください」と祈りたくなるものです。
でも、そういう祈りではなくて、「神の祝福があるように」と祈ってあげることを、イエス・キリストは期待しておられるのです。
手袋が手の形に作られているのと同じように、私たちは神の形に造られているのです。
イエス・キリストを心に受け入れる時、自分ではなく、自分の内に住んでくださるイエス・キリストがそうさせてくださるのです。
イエス・キリストが心に入ってくだされば、神さまが私たちにして欲しいと願われることを、することができるようになるのです。
私たちがお互いに「神の愛」で、愛せるようになったら、どんなに素晴らしいものになるでしょう。
いきなり大きなことはできないかもしれません。
けれども、どのような大きなことも、初めは、「私」という小さな存在の、第一歩から始まるものです。