礼拝の話

2021/02/22 

2月22日(月)聖書 エフェソの信徒への手紙 1章3~7節 校長 小西二巳夫

2月5日に高校3年生の卒業礼拝を行い、礼拝後に自分たちで企画した感謝会を開きました。

プログラムの1つに、教員の子どもの頃から今までを写真で紹介するものがありました。

私の小さい時の写真というと、60~70年近く前のものです。

ふだん古いアルバムを見ることはほとんどありません。

よい機会だと思い、探しがてらアルバムの写真を見ることにしました。

その中に40数年前にフランスに留学していた時のアルバムがありました。

写真に写っている私の表情は何かパッとしません。

どこか不満そうな雰囲気が漂っています。

私がフランスに留学した一番の理由が格好をつけるためだったからです。

そんな留学生活ですから、積極的に取り組むということはありませんでした。

同じクラスになった人たちは、私とは違うレベルの人たちでした。

アフガニスタンから来た2人は国際的な経験を積むようにと国が派遣した人たちです。

タイからの学生は国からお金を出してもらって留学をする優秀な人たちでした。

日本人留学生の1人は大きな商社のエリート社員、もう1人は文部科学省の官僚でした。

間違いなくできる人たちでした。

語学を習得しようという意気込みもまったくかないませんでした。

私の目からすれば、同じクラスの人たちは何もかも恵まれた人たちに見えました。

そして、そうなれない自分に腹立たしさを感じながら過ごしていたのだと思います。

それが、写真の表情に現れていたのです。

ところが、アルバムの写真の私の表情がある時から変わり始めます。

ある日、私はアッと気がついたのです。

彼らは私とは比べられないほどのプレッシャーと闘いながら授業を受けているということでした。

国や大企業からお金を出してもらって留学しているので、絶対に良い成績をとらなければなりません。

しっかりとした結果を出さなければならないのです。

彼らの1人から言われました。

「お前が羨ましい、自由で身軽で恵まれている」。

私は自分が恵まれていることに気づかずにいたのです。

自分に与えられているものを数えることをしないで、自分が持っていないもの、不満ばかりを数えていたのです。

自分で自分を追い詰めていたのです。

何とも格好の悪い話です。

自分にとって一番格好の悪いこと、それは自分を大切にしないことです。

そのことにようやく気づいたのです。

私の留学生活で一番の収穫を聞かれたら、すぐに答えることができます。

本当の格好悪さが何かが分かったことです。

自分を大切にすることを知りました。

さらに気づかされたのは、そんな情けない私を神さまは見放されなかったことです。

私は神の支えと導きの中で毎日を過ごしてきたのです。

それがやがて京都の大学の進学校に入学することにつながっていきます。

卒業をした人たちのプログラムのおかげで、古いアルバムを見ることになりました。

そのおかげで大切なことを改めて考える機会が与えられました。

これもまた神の導きです。

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