礼拝の話

2020/02/27 

2月26日(水)聖書 ヘブライ人への手紙 12章11節 日本基督教団 高知東教会 野口幸生牧師

おおよそ鍛錬、訓練というものは、受けている最中は苦しいけれど、後になって「ああ、やってよかった」と思うのです。

息子が3歳の時、アンパンマンの絵を描いてくれと言われて描きました。

私がささっと描くのを見て、息子は自分も描けると思って描くんですが、描けない。

丸さえうまくいかずに、鉛筆を投げ出して「描けない~!!うわ~!!」と泣く。

それを見ながら、あきらめないことを覚えてもらいたくて「まずは丸を描いてみよう」と1つずつ手ほどきをすると、その内「描けた~」といってニコッとなる。

また次は「描けない~!!うわ~!!」の繰り返しなのですが、今も何かを投げ出さずに頑張ってくれています。

私の神学校生活も同じでした。

入学早々の入学記念講演は何一つわからず焦りました。

しかし、それはしっかり勉強して卒業する時にはこれがわかるようになる、というゴールを見せる訓練だったということがわかりました。

単純な私は「そんなら、わかるようになってやろうじゃないか!」とまんまと火がついて、神学校生活が始まりました。

神学生として初めて奉仕する教会は田園調布のど真ん中の立派な教会で、アメリカのロックな教会、体育館の教会、高知の舟戸の借家の教会で育った私からすると、場違いすぎ。

そして牧師夫人が一言「あなた、その格好でお祈りの会に出るつもり?」

帽子は脱いでいるし、どこがいけないの??と迷っていると「その穴!」とジーンズの膝の穴を。

「ああ神さま、何で私をこんな場違いな教会に導かれたのですか」と苦しくなりました。

後でわかりました。

この牧師夫人はこれまで何人もの神学生を育ててきて、痛みをもって知っていたのです。

自分のスタイルを押し通すタイプの神学生は、人に仕える牧師になれないということを。

自分なりのアンパンマンしか描けない牧師は、自分なりのキリストや救いを押し通して、結局イエス様の救いを伝えられなくなってしまうことを。

そのことを口だけではなく、生活そのものを通して教えてくれました。

学生たちに栄養たっぷりな家庭料理を毎週用意してくれて、本当の母親のように愛の厳しい言葉も遠慮しない。

そして、言葉遣いも。土佐弁とアメリカの言葉しか知らない私は敬語の使い方に苦労しました。

何かを尋ねる時の精一杯の敬語は「何なが、ですか?」。

“です”“ですか”をつければ敬語になると思っている私に、言葉の訓練をしてくれたのはこの牧師夫人です。

本当に感謝しています。

神さまの導きと訓練は、最初はわからなくても、間違いない。

後には必ず、平和に満ちた実を結ばせるのです。

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