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2019/01/08 

3学期始業礼拝 校長のお話 1月

「耳ある者は聞きなさい」 マタイによる福音書11章15~17節

 新しい年になりました。3学期が始まりました。3学期最初の礼拝です。1月2日のことですが、私が17年間ずっとしてこなかったことと、逆に17年間ずっとやってきたことがあることに気づきました。やってきたのはスポーツジムに通って体を動かすことです。週に2回から3回10キロ程度走ります。長い距離を走るのは好きではありません。しんどいものです。私はしんどいことを自分の方からわざわざ取り組むというタイプではありません。そこで自分にあれこれ言い訳をして走らないでおこうとすることもよくありました。今日は体調が悪いから、仕事で遅くなったから、今日は家族と一緒に過ごそう、3日続けて走るとかえって逆効果だから。

人間やりたくないことにはいくらでも言い訳を思いつくものです。それでも何だかんだといいながら、17年間スポーツジムに通っています。何が私をそうさせてきたのかです。それは習慣です。あれこれ言い訳を考えて自分を納得させようとしても、心がスッキリしないのです。落ち着かないのです。

あれこれ理屈を並べてしないより、しっかり汗を流した方が心も体もスッキリすることを体自身が覚えているからです。それはそのまま学校生活にも当てはまります。私は学校が苦手でした。好きではありませんでした。そこでよく思いました。何で毎日学校に行かないといけないのか。特にこの冬休みのように長期休みが終わりそうな頃、新しい学期が始まって再び学校に通わないといけなくなった時に強く思いました。こんなことはもともと学校に通うのが苦にならない人、好きだという人には関係のない話です。中に早く長期休みが終わって学校に通いたいという人もいます。私はそういう人を見ると才能があると思っています。

3年間6年間学校を一日も休まない人がいます。そうした人でも1度や2度は熱が出たり風邪をひいたことがあるはずです。私ならここぞとばかり学校を休むはずです。にもかかわらず学校に行こうとする、それはまさに才能があるからです。どのような才能かといいますと、それは習慣という才能です。イヤとかキライとか、だからしないといった心の中に出てくるものを抑え込むことができる才能です。

それを習慣と呼ぶことができます。さらに注目したいのは習慣という才能は誰でも持つことができることです。学校に通うことによって持つことができるのは学ぶことです。学ぶというと、すぐに勉強という言葉が思い浮かび、押し付けられるもの、イヤイヤさせられるものと思いがちです。

本来は違います。学ぶとは自分で考えることです。自分で判断することです。

その時にもっともよい考えを持てるようになるためには、判断できるようになるためには学び続けなければなりません。その大切な学びを習慣にするために学校に通うことを習慣化するのです。

それをあらためて実感しているのがスポーツジムに通うことによってです。最初にいいましたが、私が17年間しなかったこと、室内ではなく外を走ることです。清和ラン2018で走ったり歩いたりしたように、堤防沿いの道を走ることです。9キロ、10キロを走るというと、たいてい外を走っていると思われます。室内でランニングマシーンで走りますというと、変な顔をされることもあります。ランニングマシーンのベルトの上を走っていて面白いですか、といわれることもあります。

そんな時私はムッとして反論したくなります。外を走ると温度差があって、体調によくないこともある。ひざを痛めているので、アップダウンがあると足に負担がかかって痛めやすい。ずっとそれを通してきました。

1月2日のことです。通っているスポーツジムが元旦、2日がお正月休みで営業していませんでした。2日の午前中はお正月料理をあれこれ食べながら関東大学箱根駅伝を見ていました。

その時です。こんなだらっとしているのは体に悪い、体重が増えるだけだと思い、そうだ清和ラン2018のコースを走ってみよう、そう思ったのです。思いもかけない心境の変化です。自分でもびっくりしました。何か素直な気分になったのです。そしてそのまま準備をして走り始めました。あんなに嫌いだった外を走り始めて、しばらくして何ともさわやかな気持ちになってきたのです。一年の初めに新しい体験をしたことによって、新しい年への希望が湧いてきました。

これを外を走ることを拒んできた自分に苦笑いしたくなりました。それにしてもなぜ、その日いつになく素直な気持ちになったのかを考えてみました。

その大きな理由に、それまで何度もそのことをいわれてきたことがあります。またかと思うような言葉の繰り返しがあったからこそ、それがある日、心を動かすことがあるのです。何度も何度も自分に掛けられている言葉、それが聞きたくない言葉であればあるほど、面倒くさく感じる言葉であればあるほど、何か意味があるということです。

だから聖書はいいます。

耳あるものは聞きなさい。

つまり自分には関係ないと聞き流してはいけませんということです。聞きたくない言葉を聞き流すのではなくしっかり受け止める、それを習慣にできたら、必ず素晴らしい1年にしていけるはずです。

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