礼拝の話

2020/04/15 

4月15日(水)チャペルウィーク 聖書 マルコによる福音書 14章32~36節 校長 小西二巳夫

私たちは困ったときや苦しい時に思わず「神さま助けてください」と祈ります。

清和は「祈ること」を大切にする学校です。

そこで今日は祈りについて考えます。

祈る時は手を前で軽く組み、目を閉じて心を落ち着かせます。

見えるものを見えないようにすると、神さまに心を向けることができます。

キリスト教のお祈りは一言でいうと対話です。

神さまと私の対話、それがお祈りです。

私たちが誰かと対話をする時、相手によって心構えや話し方が変わります。

友だちと話す時と校長の私と話す時では話し方が変わるはずです。

イエスさまはどんな気持ちで神に祈るように勧めているのでしょうか。

今日の聖書には「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と書かれています。

イエスさまは神さまを「アッバ」と呼びました。

これは「父上」というようなかしこまった言い方ではなく「おとうちゃん」というニュアンスです。

イエスさまは神さまに親しみを込めて話すように祈りなさい、といわれているのです。

ということは、神さまに祈る時には肩の力を抜いて、何でも祈ってよいということです。

キリスト教の神さまを信じていないけれど祈ってよいのだろうか、と祈ることについて疑問を持つ人がいると思います。

キリスト教徒でなければ祈ってはいけない、ということではありません。

誰でも祈ることができます。

これでないといけないという祈りの形はありませんが、それでは初めての人はどのように祈ってよいのかわかりません。

一般的な祈りの形はだいたい次のようなものです。

祈りは神との対話ですから、まず神さまに呼びかけます。

例えば「愛する神さま・恵みのかみさま」シンプルに「神さま」でもOKです。

祈りの内容はいくつもあります。

今朝も新しい1日が与えられ学校生活が始められます、という感謝の祈り。

○○さんを悲しませた私をお許しください、と思う時、それはゆるしのお祈りです。

○○さんの病気が治りますように、感染症が早く収まりますように。

苦しい時の神頼み、皆で心を合わせてお願いすることが感染防止のためのエネルギーになるはずです。

キリスト教のお祈りは最後に必ず結びのフレーズをつけます。

「主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。」

「イエスさまの御名によってお捧げいたします。」

必ずイエスさまの名前を言います。

これはイエス様に全部を包んでもらって神さまに捧げてもらう、という意味です。

私たちの祈りが絶対に正しい、間違っていない自信が持てる時がありますが、他の人の立場から見れば、おかしい、身勝手だと思えることもよくあります。

そう考えると祈ることができなくなります。

キリスト教はたとえ、どんな身勝手なお祈りであっても、イエスさまに私と神さまの間に入っていただくことによって、どんな祈りでも神に届くと考えています。

そして最後に「アーメン」と言います。

これは「その通りです」という意味です。

しっかりと声を合わせて「アーメン」と声を合わせて祈ることが大切です。

以上のことから「祈り」で一番大切なことがわかってきます。

まずは「祈ってみる」ということです。

祈ると心が落ち着きます。

絶対ダメだと思っていたことが、まぁいいかという気持ちになったり、相手を許せないと思っていても、なんとなく許せるようになったりします。

それによってがんじがらめになっていた自分の気持ちが楽になれるのです。

そういう意味でも、祈りは自分の苦しみやしんどさを取り除くよい方法なのです。

今、私たちには一緒に祈らなければならないと思えることがあります。

私たちの社会そして世界は新型コロナウイルス感染症問題によって揺れ動いています。

この時も感染症のために苦しみ悲しんでいる人、命が奪われようとしている人がいます。

その命を自らの命をかけて助け、守ろうとしている人がいます。

生活ができない状況に追い込まれている人たち、今日そして明日に希望を持てなくなった人たちが大勢います。

それは遠くのことではなく、すぐ身近で起こっていることです。

それでは新しい1日を、神さまとの対話である祈りから始めましょう。

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