清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2020/04/16
清和の生徒になった皆さんが最初に体験する礼拝は入学礼拝です。
清和の入学礼拝では教職員が新入生に讃美歌を贈ることにしています。
タイトルは「強いとき認められて(How much am I worth?)」です。
1節と5節の歌詞を改めて紹介します。
1.強いとき認められて 弱れば捨てられる そんなふうに わたしの価値 決められてしまうの
(繰り返し)神の目には 尊いいのち あなたたちが 宝物 私たちの 尊いいのち ただひとつの 宝物
5.どんなときも わたしの価値 まもってくれるのは わたしのため 神の御子が 捨ててくれた命
(繰り返し)
繰り返し「あなたたちが宝物」は元々「このわたしが宝物」でした。
3年前、初めてこの歌の練習に臨んだ時、先生たちから「あなたたちが宝物」にぜひ変えたいとの提案がありました。
確かにそうです。なるほど、です。
そこで作詞作曲者のコリン・ギブソンさんには申し訳ないのですが「あなたたちが…」に変更させてもらったのです(著作権云々についてはお許しください)。
讃美歌「強いとき認められて」の歌詞は清和の一人ひとりの受け止め方に重なります。
新入生を何にも代えがたい存在として迎える、その決意を込めて歌うのです。
この曲のベースになっているのが、今日の聖書の言葉です。
7節「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。
「土の塵」には何の値打ちもない、とのニュアンスが込められています。
土の塵で作った土器や焼き物に価値があるとは思えません。
土の塵で作ったものが丈夫とは思えません。
手を滑らせて落とせばすぐに壊れてしまい、バラバラの破片になるでしょう。
創世記2章は、神はその人間に命の息を吹き入れ、大切なものとされるというのです。
3月の終わりまでやっていた朝ドラ「スカーレット」の主人公は川原喜美子でした。
彼女が陶芸家になったのは、小さい時の出会いがきっかけでした。
捨てられた焼き物の残骸の中から、他の人からすれば何の価値もないように見える1つのカケラを見つけたことでした。
彼女にはそのカケラが輝いて見え、そこに自分の人生の光を見たのです。
苦しいことや辛いことも、カケラを見ることによって慰められ、仕事に行き詰った時にはカケラが励ましてくれました。
喜美子さんは人生の宝物を見つけたのです。
カケラが本当の宝物になったのは、ただ見つけたからではありません。
そのカケラによって自分をみがいたからです。
自分の中にある本当の宝物である才能や生きる力をみがいたからです。
カケラから想像できる作品を自分も作りたいと陶芸の技術をみがきました。
そして陶芸をするために必要な心をみがいたのです。
「みがく」という漢字には「磨く」があります。
柔らかい布でやさしく包む、そういう感じでしょうか。
もう1つ「研く」という漢字もあります。
鋭い刃物で削っていくことで、研磨とも言います。
一見傷つけているようですが、これによって鈍かったものがみがかれて光りだすのです。
今日の聖書から、土の塵にすぎないものを神は宝物とされていることがわかります。
土の塵のように価値のないように見える私たちに、神は何を求められているのでしょうか。
それは自分の中にある宝物を見つけること、そしてみがくことです。
そういわれても、普通は何をすればよいのかわかりません。
しかし、清和で学ぶ人には、それを見つけ、磨くための空間と時間が与えられているのです。
毎日のチャペル礼拝です。
礼拝は自分の宝探しの時間、「自分探し」の時間です。
見つけたと思える宝が本当の宝かどうかはみがかないとわかりません。
毎朝のチャペル礼拝は自分の中にあるものをみがくための空間であり時間なのです。
それでは、何を使ってみがけばよいのでしょうか。
言葉です。
言葉によって人はみがかれるのです。
礼拝で語られる言葉と聖書に書かれた言葉です。
その言葉は時には徹底的なやさしさで包んでくれ、時には身も心も削るような厳しい言葉に思えることもあるのです。
礼拝によって、宝物を探し、みがくのは生徒の皆さんだけではありません。
教職員もまた、礼拝によって探し、みがかれるのです。
それでは、今日も与えられた課題にしっかり取り組みましょう。