礼拝の話

2020/05/01 

5月1日(金)聖書 申命記 29章4節 数学科 柳井

高校生だった頃、「倫理」という社会科の科目を選択しました。

社会が苦手だったので適当に選びましたが、勉強すればするほど面白さが分かって、社会科に対する苦手意識が少し変わりました。

ギリシャ哲学から始まって、様々な人物の思想や宗教について学んだり、哲学史を学んだりする科目で、教科書には何人もの偉人と呼ばれる人たちが登場します。

私が好きな人物の中に「リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー」という人がいます。

清和が「聖書に学ぶ」ことを大切にしているように、ヴァイツゼッカーもクリスチャンでした。

1920年にドイツで生まれ、ナチス・ドイツ政権下の1938年にドイツ国防軍に入隊します。

1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発し、各地で作戦に従事し、1945年に敗戦し、ナチス政権が倒れた後は、教会業務に長らく携わりました。

その後1981年に西ベルリン市長に就任、1984年から1994年までドイツ連邦共和国第6代大統領として活躍しました。

そして敗戦後40年経った1985年、連邦議会で「荒野の40年」と呼ばれる演説を行いました。

ヴァイツゼッカーの「荒野の40年」は、2つの聖書箇所に基づいていると言われています。

1つ目は「主はイスラエルに対して激しく怒り、40年にわたり、彼らを荒れ野にさまよわせられ、主が悪と見なされることを行った世代の者はことごとく死に絶えた。」(民数記32章13節)。

2つ目は「国は40年にわたって平穏であった。こうしてケナズの子オトニエルは死んだ。イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った。」(士師記3章11~12節)。

ヴァイツゼッカーは、40という区切りに大きな意味を感じて、こう問うています。

「40年というのは常に大きな区切り目を意味しております。暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開けるのか、あるいは忘れることの危険、その結果に対する警告であるのか」。

だからナチス・ドイツの行ったホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、何も知らなかったでは済まされませんでした。

ヴァイツゼッカーは、罪の有無を問わず、個人として、どう関り合っていたかを静かに自問してほしいと考えていたようです。

そして有名な「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」という演説に繋がりました。

私が初めてこの言葉に出会ったとき、とても強い印象を受けて、いい言葉だなと思いました。

教科書を飛び出して、普段の私たちの生活にも関係しているからです。

過去の私たちがいて、現在の私たちが存在しています。

現在の私たちがいて、未来の私たちが存在します。

つまり、過去の私たちがいて、未来の私たちが存在します。

そう考えると、過去の自分に目を閉ざすと、現在も未来の自分も盲目になってしまうことになります。

過去の自分を受け入れて、現在と未来の私たちは成長していきます。

学校で勉強する歴史もそうです。

過去の歴史の上に、私たちが生活する現代社会があります。

過去の出来事や事実を何も知らないのに、現代社会が発展していくはずがありません。

だから小学校・中学校・高校で歴史を学ぶのかと思いました。

現在、コロナウイルスの感染拡大が止まりません。

世界的規模の感染症は、過去に何度もあり、感染症が流行する度に、たくさんの方が亡くなりました。

それと同時に、たくさんの医療従事者や研究者の方たちが最前線で戦ってくれました。

過去のできごとに目を向けることで、現在で目が開きます。

それが、何万人の人が亡くなるような、戦争や感染症、暗いできごとであっても同じことが言えます。

天然痘(てんねんとう)という感染症は、古代エジプトの時代から存在していたウイルスで、数え切れない人が亡くなりましたが、人類史上初めて撲滅に成功した感染症でもありました。

感染症を撲滅できた、という過去から学ぶことは多いはずです。

コロナウイルスも、なんとかなるはず。

私たちにできることは、最前線で戦っている人たちに感謝すること、なんとかなるのを祈って、家でじっとしていることです。

大切なことは、過去に学び、現在を大切に過ごすことです。

それが暗い過去であっても、受け入れ、学ぶことがあるはずです。

家の中で過ごす日々が続きますが、1日1日を大切に過ごしていきましょう

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