礼拝の話

2021/05/11 

5月11日(火) 聖書 ルカによる福音書 15章31~32節 理科 岡村

最近、意味を間違って使っている慣用句に興味を持ちました。

とくにびっくりした慣用句は「確信犯」という言葉です。

悪いことだと知っていながらやってしまうこと。これが確信犯の意味だと思っていました。

しかし、実際には自分が正しいと思ってした行動のことだそうです。

言葉の意味を勘違いしている場合や方言で全く知らない言葉の意味がある場合もあります。

私が高知に来てしばらくたったある日、アルバイト先の店長が「のうが悪い」といいました。

土佐弁での意味は「機能しない、うまくいかない」と言う意味で使いますが県外人の私はわかりませんでした。

当時の私は、「直接頭が悪いなんて、なんて失礼な人だろう」と腹を立てました。

この勘違いは、店長と私のお互いがこの言葉の意味を知っている前提だったからです。

つまり、知っているだろうと当たり前に思っていたからです。

当たり前とは、言うまでもなく当然のこと、普通という意味です。

ご飯を食べたら歯を磨く、人にあったらあいさつをする、これらは当たり前のことです。

でも生まれたばかりの赤ちゃんにとっては、当たり前のことではありません。

当たり前のことになるには、立場や環境・時間と体験・経験からその人の当たり前になるのです。

自分にとっての当たり前は、相手にとっての当たり前とは限らないのです。

今日の聖書箇所にも当たり前という言葉が出てくる話があります。

放蕩息子のたとえです。

このお話は、お金を持って家を出ていき、何もかも失って戻ってきた弟を父は喜んで迎え入れ、この父親の行動は当たり前のことだという話です。

父親は、どうしようもない弟を罰するのでなく、受け入れることによって、その後弟が成長ができると確信した行動だったのです。

清和にも、学校生活の当たり前があります。

それを記しているのが清和ダイアリーです。

この清和ダイアリーには清和の生活のルールや学びのルールが書かれています。

始業時間、服装について、身だしなみについてなどですが、ここに書かれているルールは、皆さんを縛りたいというもではありません。

このルールを守ることを当たり前のこととし、取り組みましょう。

そうすることで、さらに人間的な成長をすることができます、ということです。

つまり、清和は今日の聖書箇所の父親のように成長を願っているのです。

清和での学校生活をおくりながら、1つ1つ色々なことを自分の当たり前とできるよう、共に成長できることを願っています。

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