礼拝の話

2021/05/13 

5月13日(木) 聖書 ローマの信徒への手紙 12章17~19節 高知聖書教会 柿谷信実伝道師

みなさん映画はお好きですか。

以前、3人の詐欺師が登場する映画を観ました。

3人はそれぞれ、こいつなら“だましてもいい”という理論を持っています。

その相手は、自分にとってむかつく人たちです。

お金を巻き上げて痛い目にあわせて悔しがらせてやろう!と、詐欺を働いていきます。

3人の詐欺師の標的となる人たちはこうです。

①女性を蔑む男性

②美人の女性にしか興味のない男性

③自分は正しいと思っている人たち

それらの人たちに対する腹いせのように、多額の詐欺を働いていくというお話でした。

しかし、ふと思い返せばそんな詐欺師たちの理論に私たちも共感してしまう部分があります。

誰かの偽善を見抜いたとき、その正体を暴いてやりたくなったり、誰かの偽りを明るみに出して、こらしめてやろうと思ったりすることはないでしょうか。

隠された悪の実態を暴いて、解決策もなく涙を呑んできた人たちの代わりに自分が仕返しをしてあげることは、一見よいことに見えたりします。

私たちの中には誰しも多かれ少なかれ、正義という名を借りた自己義、独善があるように思います。

独善とは、自分一人が正しいと考えること、ひとりよがり、という意味です。

自己義とは自分が正しいと思うこと、ひとりよがりの正義です。

それは本当に正しいことでしょうか。

映画のスクリーンをただ眺めているだけならば、詐欺師たちの正義は自己義と捉えて終わるでしょう。

自分の中にもひとりよがりの正義があるならば、聖書から生き方のヒントを得られます。

今朝の聖書の箇所に、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

その前の節には、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」とあります。

“すべての人とできるだけ平和に暮らす“には何が必要なのでしょう。

「愛」と言えばすべてが収まるかもしれませんが、「愛」というのはいろいろな側面があり、一概に何をすれば愛なのかというのを判別するのは難しいものです。

では、「肯定的な姿勢」と言えばどうでしょう。

「何事にも前向きに物事を捉える」というのが“肯定的な姿勢”です。

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