礼拝の話

2021/05/21 

5月20日(木) 聖書 テモテへの手紙Ⅱ 3章16節 高知聖書教会 柿谷牧師

私は高知県生まれの高知県育ちで、両親は2人とも須崎市で牧師をしています。

教会の中で生活をし、育ちましたので、小さい頃から毎週日曜日は聖書のお話を聞いていました。

大きくなるにつれて日曜日に自由に遊べないことを不満に思うようになり、教会で聖書のお話をしていてもふざけて真面目に聞くことは少なかったと思います。

高校を卒業していろいろな人に出会い色々な考え方を知っていく中で、1つの疑問を抱くようになりました。

それは「世の中にはたくさんの宗教があるにもかかわらず、なぜキリスト教の神さまが“本当の神さま”といえるのか」「私は牧師の子どもとして生まれたので、キリスト教の神様を信じているのだろうか」というものでした。

親がクリスチャンでなければ私はキリスト教の神さまを信じないのか、と考えると答えは「YES」でした。

それから数年間、私には信仰がないと決めて過ごしました。

ところが、本当に人生に行き詰ったとき、困った時の神頼みがしたくなりました。

けれど、今からお寺や神社に行くことも考えられず、新興宗教の門をたたくこともいやだったので、実家ではない教会に毎日祈りに行くようになりました。

祈る中で、神さまはわたしを愛しているのだということが体験的にわかりました。

私を愛してくれる存在がいることを受け入れてしまった以上、その存在を疑うことはできなくなりました。

それからというもの、私を愛している“神さま”という存在がどんな存在なのかを知ろうと聖書を真面目に読むようになりました。

昔は、聖書を読むことは“よいこと”“御言葉を覚えると何かいいことがある”そういう風に考えていましたが、その時から聖書を読む根拠が変わり、「知りたい!」という気持ちが先行していきました。

神とは何なのか、私はどのように生きていくべきなのか?ということを本当に知りたかったのです。

わけのわからない旧約聖書のカタカナの羅列もわからないけれど苦でなくなりました。

わからないけれど、何かそこからわかることがあるかもしれない、自分の理解できる範囲の中ででも、前に進みたいと思ったのです。

「愛された」という実感を得てからは、神に対して積極的な好奇心がわいてきたのです。

そうしていく先に、神学校への進学の道が開かれていきました。

神学校に入学したものの、それまでろくに勉強していなかったので聖書を学ぶ前にたくさんの勉強が必要でした。

中高時代の私は勉強する目的がわからなかったのでろくに勉強していませんでしたが、歴史や哲学が土台となっている神学を理解するためには、高校卒業までに学んでいるはずの学びを改めて学び直さなくてはなりませんでした。

皆さんは今週テスト期間でたくさんの勉強に励まれたことと思います。

テストのためだけでなく、人生の糧として日々の学びは有益なものです。

その学びが“やらなければならないこと”ではなくて、“やりたいこと”となるなら、また“やりたいことに行きつくための学び”となるならば、その学びはあなたの人生に有益です。

テストの時だけでなく、生きている間中、常に新しい学びでいっぱいです。

聖書はもちろんですが、日々の授業での学びもあなたの人生をより豊かにするために有益なものです。

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