礼拝の話

2021/05/24 

5月24日(月) 聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9~10節 校長 小西二巳夫

毎日のニュースは必ず新型コロナウイルス問題からです、これは世界共通のニュースです。

この問題に対処するために清和のあれこれできることを考えてきました。

その1つが毎朝の礼拝です。

3密にならないよう距離を取るために、今の座席配置になりました。

チャペルの窓はほぼ全開、マスクは外さず、お話をする人の前にはアクリル板を立てています。

新型コロナウイルスは私たちが大切にしているものを簡単に奪います。

新型コロナウイルスは精度の高い顕微鏡でなければ見えません。

その小さなものが持つ大きな力を私たちは今見せつけられているのです。

そこで考えたいのは、今だからこそできることがあるということです。

その1つが今日初めて行った讃美歌を手話で歌うことです。

手話が何か全く知らないという人はまずいないと思います。

でも、ほとんどの人が自分には関係ないことだと思ってきたはずです。

その手話が清和のチャペル礼拝で使われました。

つまり清和の人にとって、手話が自分に関係することになったということです。

私が手話に本当に出会ったのは32~33年前、北海道の札幌の教会の牧師をしていた時です。

教会に手話通訳ができる方がいて、その方を頼って聴覚障害を持つ方がこられました。

その方は毎週の日曜日の礼拝に来られるようになり、手話通訳をしてくれる方は、その方の前で司会者のお祈りを手話で通訳され、讃美歌は先程のように手話で歌います。

そして、牧師の私の話、説教を手話で通訳されるのです。

しばらくたった時です。

手話通訳者の方が私に申し訳なさそうに、説教の原稿をコピーして事前に欲しいといわれました。

そこで、土曜日の午後にファックスで原稿を送ることにしました。

その当時の私の原稿は手書きで、20~30分の説教を作る為に、書いたり消したりします。

それを最後にノートに清書するのですが、頭の中で話をしながら書くので、早く書かないと忘れてしまいます。

そうすると書きあがった原稿は、聖書とは言い難いような乱暴な字でした。

しばらくして、手話通訳の方からまた申し訳なさそうに言われました。

読みにくい私の字を判読し、話の内容を理解するためには、原稿をもう少し早く送ってほしいというのです。

しばらくして、また申し訳ありませんが、といわれたのです。

それは私にとって、頭をガツンと叩かれるような言葉でした。

私は自分の説教はわかりやすいと思っていましたが、その私の話がちょっと難しいと言われたのです

優しい方なので、ちょっとはちょっとでなくて、ものすごくということです。

私は完全に思い違いをしていたのです。

手話通訳をする人が通訳しにくい話が、聴覚障害を持つ人にわかるはずがありません。

耳の不自由な人に分かりにくい話は、そうでない人にもわかりにくいのです。

しばらくして、教会の年配の方から「小西先生の話、わかりやすいですね」と言われました。

私ははっとして、思わず下を向いてしまいました。

その一言に私がそれまで難しい話をしていたことがわかったのです。

それがわかって申し訳なかったと思ったのです。

もし私がわかりやすいはなしをするようになったとしたら、それは私の力ではありません。

聴覚障害を持つ方に出会い、手話通訳の方が言いにくいことを言ってくれたからです。

牧師の私は聴覚障害の方によって育てられたのです。

強さが人を育てるのではなく、弱さや不自由さが人を育てるという、今日の聖書の言葉をそのまま体験することになったのです。

自分の中にある弱さや自分が劣っていると思っている部分、それがなければどれだけいいだろうと思うことが、実はその人を育てる力になるということです。

自分の周りの人との弱さを大切にすることは、そのまま自分のためになるということです。

自分の弱さ、劣っていると思う部分から目をそらさず、それを正面から見つめることが、自分の生きる力につながっていきます。

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