礼拝の話

2021/05/26 

5月26日(水) 聖書 創世記 2章7節 数学科 岡村

私の仕事の1つに今までの教員生活でなかった新しい仕事として清和の広報活動があります。

いろいろな学校に行って清和という学校の説明をします。

私は昨年3月まで県内学校で勤務していました。

最初の頃「清和の岡村力です」と名乗って訪問先の学校に行くと、訪問先の私を知っている先生からは、どうして公立学校を退職して清和に来たのかという質問が多く、清和という学校の話に入る前に私個人の説明に時間を多く取ったことも少なくなかったです。

当然ながら、私の名札も名刺も清和女子中高等学校「岡村力」です。

回数を重ね、今では訪問先の先生方も私を「清和の岡村」と思って見てくれるようになってきました。

お決まりの質問をされても、それを名刺がわりに話が弾んだりもします。

今朝の聖書の箇所には「命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。

どうなったら「命の息を吹き入れられた」ということになるのかと考えることがあります。

清和での仕事、学校生活は他にもいろいろと新しいことが多く、私にたくさんの刺激を与えてくれます。

そんな中で一番新鮮なのが朝の礼拝です。

これは今まで勤務したどこの学校にもなかったものです。

なかなか歌えない讃美歌でも「この曲聞いたことあるなぁ」とか「この讃美歌の歌詞いいなぁ」と思ったり、聖書箇所の一文を見て「この一文は聖書の言葉なんだ」と発見し、改めて納得したり、「大昔も今も人間の本質は変わらんとこがあるなぁ」と思ったりしながらこんな時に命の息を吹き込ませもらっているのかも?と思ったりします。

礼拝の時間にいろいろな人の話を聞きながら窓の外をふと眺めるときがあります。

雨の日も、曇りの日も、感染症の問題でそこに漂う空気にすら不安を感じたときも、窓の外の風景はいつも私の心を癒してくれます。

綺麗に晴れた日に木漏れ日が入ってきているときは幻想的なくらいの美しさを感じます。

私は、日々の礼拝の時間に今日一日また頑張ろう!と元気をもらったり、体が疲れていたり、気持ちが落ちているときにはその景色に癒され、よい意味でのリセットをしてもらえることがよくあります。

自信満々の時も、元気いっぱいの時も、失敗したり、いろいろうまくいかなくてしょんぼりしているときも、感情が抑えきれずイライラしているときもすべてそれが私自身です。

私が思う今日の聖書箇所の「命の息を吹き入れられた人」とは、私の今までの価値観の中にあった「努力して克服・成功」「達成感」ということだけでなく、私自身弱く、未熟な人間であることを素直に受け入れ、他者のしんどさ、痛みをさらに受け入れることの大切さを知った人であると私は思います。

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