礼拝の話

2021/05/31 

5月31日(月) 聖書 マタイによる福音書 12章34~36節 校長 小西二巳夫

学校には今、毎日のように文部科学省などから新型コロナウィルス感染問題のことでメールが届きます。

大きな決定から小さな注意までさまざまですが、お昼の時間、給食についての注意がありました。

お昼の時間は楽しい時間なので、わいわい話しながら食べたいという人も多いはずですが、マスクを外すので感染リスクが高くなるため、この時間は一人ひとり別々に、話さずに食べるようにしてください、ということです。

この通達で思い出したのが、小学校5年生の給食の時間のことです。

前後のいきさつは覚えていませんが、何かのことで言い合いになったUが私に「お前が利己主義かどうか、先生に聞いてくる」といいました。

利己主義とは、今でいうと、自己中、自己中心的という意味です。

当時、利己主義という言葉は、相手をぎゃふんと言わせる流行語、相手に精神的ダメージを与える言葉でした。

Uは教室の前の机で給食を食べている先生のところに行き、席に戻るなりニヤニヤしながら「先生もお前は利己主義って、いうてはった」と言いました。

私はその言葉にドキッとしましたが、先生は私の方を見ずにそのまま給食を食べていました。

それから数年が経ち、高校生になった時、ふとこの出来事を思い出し、同時にハッと気づいたのです。

私はUにだまされたのです。

Uは先生に私が利己主義かどうか聞きに行ったのではなかったのです。

何か他のことをいったのでしょう。

だから先生は私の方を見なかったのです。

Uの言葉にまんまとだまされたのです。

Uのしたこと、それを今風に言うと「なりすまし」です。

Uは担任の先生になりすまして、私に嫌がらせをしたのです。

なりすましというのは、他の人になって行動する、何かを言うことです。

なりすましには様々なタイプがありますが、共通しているのは悪意があることです。

なりすましの1つに電話を使って子ども、孫、警察官などになりすますものがあります。

若い人の間のなりすましは、たいていがスマホを使ったSNSがらみです。

電話を使うなりすまし詐欺とは違い、お互いを知っているという関係の中でも起きます。

私の小学生時代のように、よく知った関係の中で起こることが多いのです。

しかも、私の場合、同級生のUは悪意をもって先生になりすましました。

だからニヤッと笑ったのでしょう。

けれど、SNSのなりすましは、多くの場合、軽い気持ちでされることが多いのです。

だからといって許されるものではありません。

小学校での出来事を高校生になって思い出し、事の真相に気づくというのは、そのことが私の心の深いところで忘れられないこととして記憶されていたからです。

言葉には力が、マイナスのパワーがあるのです。

だから簡単に人を打ちのめすことができるのです。

それをよく知っていたのがイエス・キリストです。

イエスは「人は自分の話したつまらない言葉についても、すべて裁きの日には責任を問われる」言われました。

自分が他の人に何を言ったのかは忘れやすいのですが、自分が言われたことは覚えているのです。

そこで、聖書は言います。

たとえ言った本人が忘れたとしても、その言葉がやがてその人に戻ってくる。

だから自分の言葉には責任があるということを、しっかり心に刻んでおきなさい。

これを私の体験と重ねて表現することができます。

自分の言葉に利己主義になるな、です。

自分が使おうとしている言葉が、そして自分が言いたいことが利己主義なのか、自己中心的なのかどうか、まず考えなさいということです。

イエスの言葉をしっかり心に刻んで、この1週間過ごしたいものです。

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