礼拝の話

2021/05/06 

5月6日(木) 聖書 ヨハネによる福音書 15章4~5節 校長 小西二巳夫

私は週に5日ほど往復約10km、舟入川の堤防を走ります。

朝の早い時間帯なので、ほぼ毎日同じ人と行き交います。

多いのが犬の散歩をしている人で、純粋に犬の健康のために散歩をさせている人、逆に自分の健康のために犬をお供にしていると思われる人の2つのタイプがあるように思います。

時々。2匹の小型犬を連れている女性とすれ違います。

2匹は実に対照的で、1匹はリードがついていませんが、飼い主との距離をきちんととっています。

何かに夢中になっても、飼い主と離れたなと思ったらすぐに追いかけ、逆に自分が行き過ぎたと思ったら、その場所で飼い主を待っているのです。

抜群の距離感です。

私が傍を走り抜ける時も一切こちらには興味を示さず、まさに大人の雰囲気です。

もう1匹はリードがつけられていて、飼い主の女性からずっと「待ちなさい。引っ張らないで」「早く歩きなさい。そこに顔を突っ込まないの」などと声をかけられています。

対照的な2匹です。

もしどちらの犬を飼いたいと質問されたら、どちらを選ぶでしょうか。

飼い主の立場からみたら、リードなしの犬という答えが多いと思います。

そこで、次のような質問をされたら、どう答えるでしょうか。

自分が犬だとしたら、リードなしか、リードありのどちらですか。

自分がどうかと聞かれたら、私は躊躇なくリード付きの犬と答えます。

私は男兄弟3人の真ん中です。

兄はリーダーシップを発揮する独立心の旺盛な人間、弟は誰からも愛される存在で、2人とも勉強ができる世話のかからない子どもでした。

それと対照的なのが私でした。

得意なものもない、他の人よりできるものもない子どもで、母親からは世話のかかる子どもだと言われました。

私は自分をリード付きの犬というのは、そういうダメな自分を考えてのことです。

その私にイエスは「わたしにつながっていなさい」と語りかけてくれます。

「つながる」とは言い換えるとリードがついているということです。

リードにつながれることによって犬は、一見自由を奪われているように見えます。

好きなことができないように見えますが、リードによって飼い主とつながっているからこそ、毎日散歩することができ、歩く自由、外の空気を感じる自由を持つことができるのです。

イエスは「わたしにつながっていなさい」との言葉によって、つながることがいかに大切なことであるのかと、そしてそこにこそ生きる希望が生まれることを教えてくれているのです。

確かにそうです。

兄弟の中で、そして大勢の人の中で、これといって自慢できるものがない、面倒をかけてきた私が、それでも自由を守られ、前向きに生きてくることができたのは、そこにイエス・キリストというリードがあったからです。

イエスは「わたしにつながっていなさい」という言葉によって、一人ひとりが自由に生きるためのリードがあることを教えられているのです。

そのことに、励まされて与えられた学校生活の1日1日に取り組んでいきましょう。

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