礼拝の話

2019/06/21 

6月20日(木)聖書:ヨハネによる福音書 6章9節 日本基督教団 土佐教会 成田信義牧師

所詮、「出来ない」・「たりない」・「無理な」話しでした。
主イエスの神さまのお話を聞きたいと、男性だけで5千人以上の群衆を前にしているのです。
子どもや女性も合わせると、その2~3倍。1万人以上が、そこにいるのです。
何の準備もお金もありません。
それなのに、主イエスはみんなで食事を始めようと言うのです。
今そこにあるのは、一人の少年が主イエスのために差し出した手弁当、2匹の魚と5つのパンだけです。
ここいる群衆をまかなうためには、無いに等しいものです。無意味、同然です。
何か事を為そうとする時、自分の力量や経験に不足を感じて、「・・・やめておこう」と判断することがあります。
しかし、主イエスの挑戦はそこから始まります。
「出来ない」・「たりない」・「無理だろう…」と決めてかかる弟子達でしたが、主イエスが違いました。
まず、少年が持ち寄ってきてくれた5つのパンと2匹の魚を、天を仰いで感謝の祈りを捧げます。
これこそ今、必要なものであったがごとく、大いに喜ばれるのです。
さらに、群衆を小さなグループに分け、パンと魚をも割いて、分けて、弟子達に手渡します。
主イエスから弟子達へ、弟子達からグループへ、グループからその隣のグループへ、グループ内では一人から一人の手元へと・・・。
けれども、計算上ではありえないことに、分かち合っても分かち合っても、いっこうに無くなりません。
しかも、群衆全体に行き届いても、何故か食べ物が12の篭が溢れていたといいます。
「やめておこう」、「無理だろう」という、あきらめのため息が、驚きと感謝の喜びに変わる光景が、ここにあります。
私達の持てるものにも、活かそうとすることなく、「出来ない」・「たりない」・「無理な」話しに終わらせているものがないでしょうか。
上手くいかなくて傷つくくらいなら、最初から始めないほうがましだと思いたくもなります。
けれどもこの私から始めることで、新たな分かち合い生み出すものあるのです。
分ければ分けるほど増えていくものがあるのです。
そのことを、主イエスはこの光景で映し出してくださったのです。
今日も、私達は自分が思う以上に大いなる喜びに包まれています。
皆さん一人一人にとっての「2匹の魚と5つのパン」が期待されています。
自分の計算を打ち砕かれ、私達の経験や発想が真新しくされようとしています。
そんなちょっとワクワクを胸に、今日一日を始めてみませんか。

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