礼拝の話

2024/06/18 

6月4日(火) 聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章1節 社会科 山脇

中国では今日6月4日という日は、非常に大きな意味合いを持つ日です。

今から35年前、1989年に中国で学生を中心に民主化を求める運動が起こりました。

1980年代の後半は、アジアだけでなく、世界的に民主化を求める運動が盛んとなった時期でした。

4月から始まった運動は、次第に各地に広まり、6月には学生を中心に数十万人の若者が天安門広場に集まりました。

広場に集まった人々は、中国政府を倒すことや、共産党の指導体制を終わらせることを求めていたわけではなく、多くの国で認められている、表現や言論といった自由や権利を保障してほしい、という基本的な自由と権利を求める運動でした。

中国政府は5月の段階で首都北京に戒厳令を出し、デモ参加者に対して解散を求めていました。

戒厳令を出すということは、軍隊を動員するということを意味します。

6月3日の夜から4日の未明にかけて、天安門広場に動員された軍隊はデモに集まった民衆に向けて発砲を始め、装甲車や戦車を民衆の中に突入させ、集会を強制的に解散させました。

この6月4日に起きた天安門事件は、日本も含め、全世界に報道されました。

当時、中学生だった私も、新聞やニュースを見て、衝撃を受けたことを覚えています。

今のように誰もがインターネットを使用する時代ではなかったとはいえ、国際的なニュースは衛星放送を通じてリアルタイムで知ることができました。

天安門事件はあっという間に世界に配信され、中国政府への批判も高まりましたが、この35年間、国による厳しい監視と規制、6月4日やその前後に集会などを行えば即座に逮捕するという強引なやり方が続いてきたからか、中国国内では、この日に何が起きたのかを口にするのを控える、口にしたら自分の身が危うくなるという意識が人々の間に定着したように思います。

街頭で事件のことを問われた男性は、天安門と言う言葉を聞いたとたんに表情が強張り、質問が続くうちに、「答えたくない」と返答しました。

万が一にでもその動画が拡散すれば、自分の身が危うい、そう考える人が多いということが分かります。

改めて自由とは何だろうと考えさせられる、そんな6月4日です。

今日の聖書箇所には、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」とありました。

聖書は私たちも何かに縛られて生きている、と言います。

それは今日の話ででてきたような、国家権力によって自由や権利が縛られている、ということだけでありません。

自由だと思っている私たちも、何かに心を奪われ、それに縛られて、時には自分の気持ちを押し殺しながら、日々の生活を送っているということを、聖書を読むと思うのです。

そのような私たちに聖書は、「キリストが自由を得させてくださった」というのです。

聖書の語る自由は何かを改めて見つめると、それは「罪からの解放」だということが分かります。

罪という最大の束縛から、すでにあなたたちは解放されている、と聖書は言います。

だから、イエス・キリストの言葉のうちに、自由に生きることがゆるされている、と聖書は約束するのです。

そうか、自分では拭い去ることのできない罪の束縛を、イエスが十字架にかかってくださったことで、私たちは自由を得たのだから、そのイエスの言葉を信じて歩むことが、自由に生きるということなのか、と改めて思いました。

そうであるならば、私たちは勇気を持って歩んで良いのだと思います。

今日、6月4日を迎えるにあたり、本当の自由とは何かを考えさせられました。

イエス・キリストの言葉を受け入れ、イエスの恵みのなかで自由を与えられたことに感謝したいと思います。

学校生活の様子

学校生活一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活|中学校一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ