清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2021/06/01
今年、久しぶりに高校生の地理を担当して思い出したのが、私が中学一年生の時のことです。
今思えば、当時の私はとても効率の悪い勉強をしていたと思います。
学校から配布された白地図があるにも関わらず、試験前に勉強する時は自分の勉強用のノートにわざわざ地図を書き、その中に国名や首都名、山脈、河川名、気候帯などを記入し、よせばいいのに、わざわざ色付けなどもしながら、さらに覚えたい地名や地域などは枠をつくって書き込み、その枠の幅に合わせて新聞のチラシを切り、枠が隠れるように上からテープで張り付けるという面倒くさいことをしていました。
なんで、そんな時間のかかることをしていたのかなぁ、と思ってしまいますが、答えは単純です。
そのやり方が自分なりに楽しかったからです。
楽しいから時間がかかっても、わざわざ地図を書いて、暗記できるように枠を作って、チラシで隠すというやり方をしていたのです。
そしてもう1つ、社会の担当がクラス担任の先生だったからという理由もあります。
学生時代にスポーツや文化活動で優秀な成績を挙げ、すごい実績を持つ先生がいたりしますが、その先生はそういうわけではなさそうでした。
上級生からは「○○ちゃん」と呼ばれていたので、どちらかといえば怖くない先生でした。
どこかおっちょこちょいで、一見頼りなさそうに見えるのですが、授業の時も、生徒を追いかけ回している時も、とにかく一生懸命でした。
その先生は、よく声をかけてくれました。
廊下でのすれ違いざまや、帰りのホームルームが終わって部活動に行くその途中、朝練が終わって教室に入る前などに、さりげなく声をかけてくれるのです。
朝練が終わった後の「朝からお疲れさま」、授業が終わった後の「テスト頑張っていたね」など、何気ない一言ですが、その一言で気持ちが落ち着きました。
歩きながらの一言、ちょっと足を止めての一言、時間にすれば数秒ですが、そのわずかな一言に励まされていたのです。
見られていない、気付かれていないと思っていたのに、その先生は、見えないところで見て、気付いていないようで気付いてくれていました。
だからでしょう、この先生のテストだけは絶対に手を抜かない、と思って自分なりに努力しました。
社会が好きというのと、この先生のテストだけはという思いから、とても効率の悪い勉強の仕方なのに、楽しく勉強できたのです。
その先生の自然な姿、自然と子どもと同じ目線に立つ姿、何事にも一生懸命な姿は、私がどんなに背伸びしても、どんなに手を伸ばしても、決して届くことのない大きな存在です。
今日の聖書箇所には、神が「あなたたちが生まれた時から老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしがあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」と力強く語られています。
私たちは日常の生活の中で、周りの人に励まされ、支えられています。
もちろん、時にはぶつかることもありますが、それでも、周りにいる人の存在に助けられることはとても多く、自分が気づかないだけで、知らないところで私たちをしっかり見てくれる、支えてくれる存在があるのです。
「自分は一人ではなかった」と思えた時、自然と気持ちが軽やかに、晴れやかになることはないでしょうか。
自分の弱さを感じた時、支えてくれる存在があることに気づくと、希望や勇気があふれるような気持ちになることはないでしょうか。
神は、目で見ることはできませんが私たちの知らない所で、私たちの重荷を一緒に背負い、支えてくれています。
私たちはそのように、見えるものだけでなく、自分の気づかない、多くのものに支えられて、今日も歩んでいます。
そのことに感謝して、今日一日を歩んでいきたいと思います。