礼拝の話

2020/06/10 

6月10日(水)聖書 ヨシュア記 1章6~7節 日本基督教団 土佐嶺南教会 鍋谷仁志牧師

試験といって真っ先に思い出すのは、牧師になるための試験を受けたときのことです。

社会人入試で小論文と面接しかないので、ほとんどの人は受かるものだ、と言われていました。

しかし、自分の天職ではないか、と数年の回り道を経てたどり着いたと思っている私にとっては、まさに人生の試験のようなものだったわけです。

ほとんどの人は受かる、と言われていても、その中に自分がはいっていないかも、という不安はずっとつきまとっていました。

試験の前に礼拝があり、「神さまがここに招かれたあなた方だから、試験が終わったあとの、その先のビジョンを見据えて歩んでまいりましょう」というような内容でした。

この説教を聞いて、「あぁわたしはここに招かれたんだ。だから絶対に受かる。ここで牧師になるための学びを続けるんだ」と受けとったのではありませんでした。

そうではなく、そのことを含めて神さまは、これからの私の行く先を良いものとする、といっておられる。

合格、不合格に関わらず、これから先、神さまがずっと一緒にいてくださる、といちばん大切なことが確かにされて、安心して試験に臨むことができました。

今回の中間試験に向かって、しっかり勉強した人、あまり…という人もいるでしょう。

結果は努力の成果が現れることもあれば、思ったように伸びないこともあるでしょう。

しかし、結果がどうあっても、この試験期間中に過ごした時間は、がんばったこともがんばれなかったことも、一人ひとりの血となり肉となります。

私は牧師になる思いを3度与えられて、その度に挫折しました。

社会人時代には無駄な時間を過ごしていると思わされることもありましたし、頑張ったこともたくさんありました。

挫折した経験も無駄と思っていた時間も、頑張ったことも、今の私の牧師としての働きに生かされていると思っています。

全ての時間は、その人にとっての財産となります。

結果を気にしすぎることなく、しっかりと試験と臨んでください。

すべてのことは神さまが導いてくださっています。

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