礼拝の話

2019/06/13 

6月12日(水)学校記念日礼拝 聖書:マタイによる福音書5章8~9節 校長 小西二巳夫

今日は清和学園の学校記念日礼拝とホームカミングデーです。
そこで清和を卒業された方たち、教会関係者の皆さんもご一緒に礼拝の時を持っています。
ホームカミングというのは、卒業生の皆さんを母校にお迎えして、あれこれプログラムを組んで楽しんでいただくという行事です。
礼拝後には卒業生2組による座談会を行い、聖書と家庭科の模擬授業を東館で予定しています。
今年のホームカミングデーのお誘いの言葉は「清和生活の一日を追体験することで、日々の生きるエネルギーを取り戻しませんか」でした。
清和の3年間、6年間をもう一度体験することにより、元気なってもらおうとの気持ちを込めました。
卒業生の皆さんの清和の学校生活で、一番心に深く残っているのは何でしょうか。
たいていの人はこのチャペルでの毎日の礼拝だと答えられるのではないでしょうか。
清和といえはチャペル礼拝です。
今朝の聖書の箇所は、清和の建学の精神が書かれている箇所です。
校名もここから取りました。
ある卒業生の方とお話をしているときに、在学中にはよく叱られた、と聞きました。
けれども、その声や言葉は嫌なものではなく、今思い出しても嬉しかったとのことです。
それぞれの先生が、それぞれの注意の仕方、叱り方で一人ひとりを気遣ってくれたことを今実感しているとのことでした。
清和の学校生活は、その人の個性、他の人の違いを認めて受け入れることから始まるということです。
こうあってほしいとの願いから、すべてが出発するということです。
ある保護者の方から質問されたことがありました。
「なぜ先生によって注意の仕方が違うのですか。学校としておかしくありませんか。」
私は答えました。
「人によって違うのは当たり前です。同じ言葉で同じように対応することは公平ではありません。その生徒の存在を大切にしていないことになります。」
注意される方もする方も、それぞれ状況も違えば、性格も違うのです。
教師といえども、生徒のその一言にものすごく腹が立つ時もあれば、納得できるときもあるのです。
私も注意することがあります。
でも、同じことでも黙って通り過ぎることもあります。
それは、見て見ぬふりではなく、見ないふりをして見ているからです。
それぞれの家庭生活から派生した悲しみや痛みなどがある時には、あえて何も言わないこともあるのです。
それを不公平と言うなら、おかしいというなら、それはそれでかまわないと思っています。
そうした受けとめ方で、清和で大事にされてきたことが実感できるのは、後になってからということも多いのです。
そこで大事なことは、聖書が書いているように、後になってわかる、ということを今大事にする、そういうことなんだ、と今知っておくことです。
だから、清和はチャペルで始まる一日一日を大切にしましょう、と言い続けてきたのです。
今日も言います。
このチャペル礼拝から始まる今日という一日を大切にする、その気持をしっかりと持ちましょう。

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