礼拝の話

2022/06/14 

6月13日(月) 聖書 マタイによる福音書 26章52~54節 校長 小西二巳夫

高知にゆかりの植物学者、牧野富太郎が言った一言があります。

「どんな草にも名前や役割があり、人々の都合で雑草などという邪険に扱うような呼び方をすべきではない」。

ある人が雑草に困っているとの話をした時に、牧野博士がそう答えたそうです。牧野さんは自然からすべてを学ぼうとした人です。そこで「どんな草にも」を人に置き換えると、なるほどと思います。

「どんな人にも名前や役割があり、自分の側の勝手な都合でその存在をバカにしたり、差別したりしてはいけない」。

牧野さんの言葉は一人ひとりを大切にされたイエスの言葉に重なります。植物学的に言うと「雑草は弱い植物」だそうです。弱い植物なら、雑草がどうして身の回りにはこんなにはびこるのでしょうか。

中庭の雑草を見ていても、やはり弱さより強さやたくましさを感じます。それにもかかわらず、なぜ雑草は弱いと言えるのかです。雑草が何に弱いのか、それは「競争に弱い」のです。

植物の成長に欠かせないのが光合成をするための光です。この光争奪戦に負けると光が当たらなくなって枯れることになります。雑草と呼ばれる植物はこの競争にたいへん弱いのです。植物が一番成長しやすいのは森の中です。森の中には雑草が見当たらないのは、雑草は自分が競争に弱いことを知っているので、そこで育とうとはしないからです。それならどこで生きようとしているのか、それは競争相手がいない場所です。

それがコンクリートの割目などの他の植物が選ばない場所、争いのない場所です。雑草は徹底的に戦わないという方法で生き続けてきたのです。最初に牧野博士の雑草の存在についての言葉を人間に置き換えてみました。52節には次のように書かれています。

「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。」

「武力攻撃を行って敵を倒そうとするなら、結局自分の側も敵の攻撃によって滅びることになる。」

ロシアが今ウクライナで行っている武力攻撃がまさにそれです。人間は何か自分たちを何か偉いかのように思うことがあります。けれど雑草という言葉で見下す存在にわかっていることが、人間はわかっていないのです。

牧野さんと同じように、自然から学ぼうとした人に内村鑑三という人がいます。内村鑑三は言いました。

「読むべきは聖書 学ぶべきは天然 なすべきは労働」。 

内村鑑三の言葉からわかるのは、私たち人間は今自然からたくさんのことを学ぶ必要があるということです。そこで、自然の一部である雑草から学ぶとしたら、それは雑草の生き方です。雑草は競争相手ができる限りいない場所を選んで育とうとします。これは戦わない、戦争をしないということです。戦わない、戦争をしないにも2種類あります。不戦と非戦です。

不戦は戦おうと思えば戦えるけれど、今は戦わないでおきます、という意味です。非戦の意味は、戦いや戦争は根本から間違っていると考えて一切しないことです。日本の憲法の第9条は非戦を記しています。雑草は他の植物との生存競争に負けて自分たちの生き方を学びました。日本も戦争に負けて、人間本来の生き方を学んだのです。イエスは今日の言葉によって、実は人間が持つべき「強さ」を教えてくれているのです。それは強い弱いで考える強さではありません。

強いという漢字に送り仮名「か」をつけると、「したたか」という言葉になります。「したたか」と言うと否定的な意味で使われることが多くありますが、本来の意味は「しっかりしている」「賢い」です。剣を抜いて、威勢のいいところ、強さを見せた弟子に、そういう強さを持つのではなく、もっと強かさを持った人、弱さを大切にできる人になりなさいと言われたのです。イエスは自らの弱さを隠すことなく強かに生きられました。そして私たちにも自分の弱さ自覚することから出てくる強さである、強かさ、賢さを持った人になることを求めておられるのです。

この求めにしっかり応えられる自分になりたいと願います。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ