礼拝の話

2022/07/04 

6月20日(月) 聖書 ヨハネによる福音書 6章51~53節 校長 小西二巳夫

高知生まれの人で、漫画家イラストレーターでパンを主人公にした物語を書いた人は誰ですか、と聞かれたら、「アンパンマン」を描いた「やなせたかしさん」が挙げられます。

同じ質問を今、子どもたちに尋ねると柴田ケイコさんの「パンどろぼう」と答える人がどんどん増えています。

パンどろぼうの顔や姿はアンパンマンと真逆です。

顔じゅうにしわが寄っていて、目はうつろ、舌はだらりとたれています。

真逆なのは顔や姿だけではありません。

アンパンマンは困っている人がいたら、自分が弱り傷つくことがわかっていながら、顔頭を食べさせました。

その行動は利己的ではなく利他的です。

しかし「パンどろぼうの」行動は、どろぼうという言葉そのままです。

パン屋さんを探しては、お店の人の目を盗んで、これと思ったパンをかついで逃げるのです。

隠れ家に戻ってくると、大きな口で「いただきます」といいながらパンにかぶりつくのです。

盗むことは許されませんが、パンどろぼうとしての一定のルールは持っています。

「ふっくら焼き立てをねらう」「いただくパンは1つだけ」「いただくときは感謝を込めて」。

ある日、パンどろぼうは森の中に1軒のパン屋さんを見つけました。

お店の壁には「せかいいち おいしい もりのパンや」と書かれていました。

そこでパンどろぼうはいつもの要領でパンを盗み、期待しながらかぶりつきました。

食べた瞬間、パンどろぼうは大きな声で叫びました。「まずい!」。

あまりのまずさに頭にきたパンどろぼうは、森のパン屋に戻り、自分の立場を忘れてパンやのおじさんに言ったのです。

「なんだ このまずいパンは これがせかいいち おいしいパン だなんてみとめないぞ」。

パンどろぼうの終わりのページでは、パンどろぼうがパン職人になっています。

そして、もりのパンやの前にはおいしいパンを求めるお客さんの長い行列ができています。

パンどろぼうの変化はどろぼうが職人になっただけではありません。

お話の最初の方で見せる、パンどろぼうは顔にしわを寄せていましたが、パン職人となったどろぼうの表情はやさしさに溢れています。

目はニコニコ笑っていて、生きることそのものが楽しそうです。

パンどろぼうがパン職人になったのは、パン屋のおじさんの一言がきっかけでした。

「おいしいパンが たべたいなら、きみも いっしょに パンを つくるのはどうだろう」。

この一言にパンどろぼうは ハッとしたのです。

「そうか じぶんで つくればいいんだ」。

パンを愛するということでは、どろぼうの時も職人になってからも同じです。

違うのは、どろぼうの時は自分が好きなパンを食べたい、自分のためだけでした。

自分が食べることに喜びを感じていたのです。

職人になるということは、パンが好きな人においしいパンを食べてもらいたい、喜んでもらいたいということなのです。

この変化を一言で言うと、パンどろぼうは、利己に生きる人から利他に生きる人になったのです。

パンどろぼうも、パンを盗む生活をしている時に、そのままの自分でいいとは思っていなかったはずです。

自分を変えたい、生き方を変えたいとの気持ちをどこかに持っていたと思います。

その自分を変えたのが、文句を言いに行ったおじさんの一言がきっかけでした。

清和は今、学園祭に取り組んでいます。

「平和をつくり出す人々は幸いである」をテーマに、具体的には国連サミットで採択された持続可能な社会を目指しての「17の目標と169の取り組み」から、クラスで選んだ目標について、話し合い、アイデアを出し合い、言葉の行き違いや焦りに折り合いをつけながら、毎日を過ごしています。

今日の聖書でイエスは言いました。

「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンをたべるならば、その人は永遠に生きる」。

永遠に生きるという意味は「イキイキ生きる」ということです。

学園祭に取り組むことが、自分自身を生き生きとさせてくれることにつながるのです。

イキイキした表情にしてくれるのです。

そこに清和の一人ひとりが学園祭に取り組む目的と意味があります。

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