礼拝の話

2021/06/24 

6月23日(水) 聖書 エフェソの信徒への手紙4章29節 国語科 田野

寺田寅彦の短文集『柿の種』の中に、次のような文章があります。

「学校を卒業したばかりの秀才が先生になって講義をするととかく講義がむつかしくなりやすい。

これにはいろいろの理由があるが、一つには自分の歩いて来た遠い道の遠かったことを忘れるというせいもあるらしい。」

新たなものを作り上げるには、多くの時間がかかりますが、できたものだけを見ていては、そのことに気づくことは難しいと思います。

いつのまにか最初からそのものが、ずっとそこにあったかのようにも思えてくると、ものを作り上げた人たちの努力、労力などを考えなくなってしまいます。

実は、ものを受け取る私たちも、ものを作り上げた人たちの「歩いて来た遠い道の遠かったことを忘れ」てしまっているのです。

このようなことになってしまう1つの要因は、想像力のなさによるものだろうと思います。

すでに目の前にあるものについては、それができ上がるまでの過程を忘れやすくなって、「当たり前」の状態になっているということです。

「当たり前」の状態を、改めて特別なものとして受け入れることは、とても難しいことです。

「当たり前」の状態になってしまえば、普通は説明を省略してしまいます。

しかし、この感覚は、説明される側にとっては違っているのかもしれません。

自分にとっての「当たり前」は、相手にとっての「特別」かもしれないのです。

このことを見落とすと、さまざまな問題を起こします。

1つのすれ違いだけであれば、それほど大きなことはつながらないかもしれませんが、1つのすれ違いが、次のすれ違いを生む、というすれ違いの連鎖が起こるようなことがあれば、見過ごすわけにはいけないことになっていきます。

自分にとっては「ささいなこと」が、相手にとっての「重大な問題」になってしまいます。

自分にとっての「よいこと」が、相手にとっての「よいこと」に必ずしもならないことを、どこかで考えておかなければならないと思います。

今自分の考えた、相手にとって本当に「よいこと」なのか、相手にとって「悪い言葉」となってはいないかを思い浮かべることがとても重要です。

自分の何気ない言葉によって、周りの人の1日が「造り上げ」られていることもあるのです。

「思い浮かべる」の想像が、「造り上げる」の創造へつながっていくということを心にとめて、日々過ごしていきたいと思います。

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