礼拝の話

2021/06/29 

6月28日(月)聖書 ルカによる福音書 10章30~34節 校長 小西二巳夫

「鬼滅の刃」について気づかされたことがありました。

それは、「鬼滅の刃」は敵である鬼のことをしっかり描いていることです。

残酷な鬼は、もともとは人間であり、人間であった時の鬼の痛みや悲しみがていねいに描かれているのです。

主人公は残酷な鬼を倒しても大喜びはしません。

倒した敵である鬼の傍らに寄り添い、死んでいく鬼の手を取りながら涙します。

主人公には鬼が人間だった時の大きな痛みや悲しみが見えていたのです。

鬼たちが痛みや悲しみ、恨みをもったまま死ぬのではなく、一瞬でも生きていてよかったと思えるようになってほしい、そのためには、それらを自分が一緒に背負っていると伝えたくて、涙を流さずにはいられなかったのです。

聖書にはこの主人公と同じような感性を持ち、行動した人がいます。

それが今日の聖書の箇所に登場するサマリア人です。

イエスは、強盗に襲われ大けがをした人を誰が助けたかというたとえ話をしました。

周りから偉いといわれている祭司、立派な仕事をしていると思われているレビ人は大けがをしている人を避けて「道の向こう側」を通って行きました。

これは、自分には関係ない、関わりたくないという意味です。

そして3人目に通りかかったサマリア人は、大けがした人を助けようと道のこっち側に来て、治療を受けさせるために宿屋に連れていき、自分のお金を出してまでできる限り手を尽くしてほしいと宿屋の主人に頼みます。

このサマリア人は、「鬼滅の刃」の主人公が鬼に対してとった行動と同じく、大けがをした人の痛みが、自分のもののように感じたからです。

他者の痛みを自分の痛みにできるサマリア人を見て、誰もが立派な人だと感じます。

イエスは、この話に出てくるサマリア人にはなかなかなれないことを承知で話をされているのです。

サマリア人のような生き方を貫かれたのがイエス自身でした。

その見える形が人の罪を背負って十字架に架かることでした。

イエスは私たちに自分と同じようにしなさいとは言われていないのです。

イエスは、私たちにたとえ道のこっち側を通れる人になれなくても、知らん顔して道の向こうを通っていくのではなく、せめて道の真ん中を通る人になってほしいと、呼びかけてくださっているのです。

道の真ん中を通るというのは、自分にできることをきちんと実行することです。

自分にできることが何かをしっかり考えて、それを具体的な形にしていく、それならできるはずです。

一人ひとりが自分にできることを課題にして取り組む、そういうイエスの呼びかけにしっかり応えられる自分にぜひなりたいと願います。

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