礼拝の話

2020/07/02 

7月1日(水)聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1~4節 日本基督教団 土佐嶺南教会 鍋谷仁志牧師

鴻上尚史(こうかみしょうじ)という劇作家がいます。

数々の舞台の演出をし、脚本、エッセイ、小説なども書いています。

顔はいかにも柔和、という雰囲気の人です。

この鴻上さんが数年前からネットで「鴻上尚史のほがらか人生相談」というものを連載し、

本にもなり2冊目が最近出版されました。

「ほがらか」とタイトルのあるように、深刻な相談でも肩ひじを張らない感じで、まさに柔和な口調で回答しています。

徹底して相談者に寄り添い、悩みや苦しみを分かち合うようにして、問題の解決のために必要なことを丁寧に考えて語ってくれています。

時間をかけて言葉を選んでいることがにじみ出る回答に感じます。

夫婦についてのある相談への回答の中にこういう言葉がありました。

「親だろうが夫婦だろうが子供だろうが、基本的に『分かりあえない』という前提で付き合うのが大切だということです」

本当にそうだな、そのことを分かっていることが大切だな、と思います。

相手のことを完全に分かることも、自分のことを完全に分かってもらうことも本当に難しいことです。

夫婦に限らず、人間関係がうまくいくためには、互いの忍耐が不可欠ということです。

一方的な忍耐はしんどくなりますが、お互いに忍耐するならば、それは互いに精いっぱい寄り添い合い、受け入れ合っていることだと思います。

お互いに、相手の方が忍耐していると受け止めていれば、自分の忍耐はしんどくならず、心地よく一緒にいられるのではないか、と自分自身の体験からも教えられます。

相手のことを思って、いつの間にか無理なく忍耐している、できる。

それが、単に柔らかで和やかであるのとはちょっと違う、聖書のいう「柔和」の意味なのかな、と思います。

今日の聖書には、寛容や忍耐という言葉と並んで、柔和が出てきます。

柔和とは、愛をもって忍耐する、つまり重苦しくなく、言ってみれば、軽やかに忍耐する、そのための性格、性質であると言えるでしょう。

誰よりもイエスさまが、私たちのために愛をもって忍耐されました。

私たちを救うために、十字架にまで架かられたイエスさまの忍耐はどれほどのものだったでしょう。

その忍耐は、私たちへの愛のためでした。

十字架の上のイエスさまの姿こそ、聖書の告げる柔和なのです。

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