礼拝の話

2024/07/23 

7月19日(金)1学期終業礼拝 聖書 マタイによる福音書 28章16~20節 校長 小西二巳夫

銀色夏生という詩人、作詞家が旅について書いたエッセイがあります。

銀色さんは旅行好きでしたが、子育てなどもあってできなくなっていました。

子育ても一段落したので、また旅ができる、特に海外旅行できると思ったのですが、しばらく旅行をしていなかったので、自分はどんな旅が好きなのかわからなくなっていました。

そこで自分に合った旅行とはどのようなものかを確かめるために、1月から6月まで、毎月5日間から10日間の旅行をしたというのです。

銀色さんは1回目の旅行で、楽しいことは一つもなかったと言いながら、2週間後には2回目のパック旅行に参加しました。

しかも、その旅も予想通り期待外れでした。けれどなぜか、3回目、4回目、5回目の旅に出かけ行ったのです。

そのことで気づかされたことがあります。

1回目の旅と2回目の旅を終えた時の感想が同じだったのです。それは「こういう旅は もう二度と しないだろう」です。

そして、それをそのまま本のタイトルにしたのです。この言葉は二通りの受けとめ方ができます。1つは、これから先二度と出会えないような楽しい旅だった。

もう1つは、こんな旅はもう二度と体験したくない、悪い旅だった、です。

そして、銀色さんは、「こういう旅は二度としたくない」を、もうこりごりという意味で使っているのです。にもかかわらず、旅を続けたのは、自分の人生そのものが旅だということを知っていたからです。

銀色さんがこのエッセイを書いたのは60歳を過ぎた頃です。

干支が一回りするのに60年かかり、それを還暦と言います。

私もそうでしたが、還暦60歳を超えたあたりから、ふっと自分の人生が旅だと思えるようになることがあります。

そして、人生にはうまくいかないことや苦しいこと、悲しいこともたくさんあったけれど、それはそれで楽しかった、おもしろかったと思えるようになるのです。

そこで考えたいのは、自分の人生を旅だと受けとめることの意味です。

銀色さんが5回の旅を通して実感したのは、どの旅も振り返れば懐かしく思えるということ、それぞれには他にないよさがあるということ、出会ったすべての人から得るものがあった、ということなのです。

銀色さんはさらに考えました。

旅ができること自体がすばらしいことであり、奇跡そのものだということです。それはイエスの弟子たちが感じたことでもありました。

弟子たちは今日の聖書の箇所に至る3年前にイエスから声をかけられて弟子になりました。そして行動を共にするようになりました。

弟子たちの3年間はガリラヤ地方を中心に旅を続ける日々でした。その旅はしんどいことや苦しいこと、思い通りにならないことの連続でした。けれど、それに勝る喜びがあったのです。それはイエスがいつも一緒の、自分を守ってくれる旅であったからです。

そうすると、清和の中学と高校の3年間も、弟子たちの3年間と同じく旅だと考えることができます。しかもイエスと共に旅をする3年間です。

それぞれの3年間は後から考えたら、苦しいことや嫌なことも、たいていのことは楽しいと思えるようになります。けれど、清和で学ぶ意味は、「後になってわかること」を今知った人になる、わかる人になることです。それによって、今をいきいき生きることができるようになるからです。

そこで、明日から始まる長い夏休みを、しっかり旅をするとの自覚をもって過ごしたいと思います。

夏休みの40日間を旅だと自覚することで、中身の濃い、まさに「こういう夏休みは もう二度としないだろう、できないだろう」という貴重な時間になるからです。

それでは9月2日の始業礼拝を、さらに輝いた表情で共に迎えましょう。

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