礼拝の話

2019/07/18 

7月18日(木)聖書:創世記50章20節 日本基督教団 土佐教会 成田信義牧師

自分の高校時代を思い出すことがあります。

楽しくもあり、思い悩みもした、濃密な3年間でした。

今でもつらつらと思い出せるのは、自分を否定的にしか思えなかった出来事ばかりです。

けれども、あとから振り返ってみることで初めてわかることもあります。

出来事自体は変わりようがありませんが、その意味合いが変わってくるのです。

旧約(ヘブライ語)聖書の創世記の結びにヨセフ物語があります。

30ページに及ぶスケールの大きな物語です。

このヨセフという人は様々な試練や困難に遭遇します。

しかし、その1つ1つが悪いことやマイナスに終わらないのです。

神の計画という、まだ見ぬその先のために必要なこと、布石、つまり必要だったものへと、その意味が変わっていくのです。

そんなヨセフのことを、聖書は神が共にいる人として描きます。

そして、私たち一人ひとりもまた、自分の思いや願望とは必ずしも同じではない、神の計画に活かされていることが物語られています。

ヨセフは長い年月を要しましたが、かつて自らに悪事を働いた兄たちとの劇的な再会を果たし、12兄弟の和解という神の計画の実現を果たします。

その波乱に富んだ人生を振り返って兄たちに語ります。

「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」

悪にしか思えないこと、マイナスにしか受け止められないことも、神の計画においては、それだけに終わらない。

そして、これらが今の自分にとって必要なことだったのだと、心から思える日が必ず訪れる。

このように自分や社会を見つめるまなざしを持ちたいものです。

自分では否定的にしか思えないことも、後になって振り返れば大切になることがあります。

思い通りにいかないことが、いつの日か必要なことだったと受け入れられる日が訪れます。

ただ、今の私たち自身の受け皿や判断がちっぽけなだけ。

それだけ、神さまの計画はスケールが大きいのです。

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