礼拝の話

2020/07/21 

7月20日(月)聖書 ルカによる福音書 12章22~25節 校長 小西二巳夫

私が苦手なものに動物園と水族館がありました。

私が動物園を苦手とする理由は、動物はたいてい狭い場所に閉じこめられていて、どう見ても人間が動物の自由を奪っているとしか思えなかったからです。

あれこれ理由をつけても動物虐待であることには変わりないと思ったのですが、その考えを根底から覆してくれた人がいます。

旭川にある旭山動物園の園長の坂東元さんという方です。

彼の話を聞き、書かれた本を読んで、私の考えも一方的であるとわかったのです。

坂東さんの話で一番印象深く聞いたのは象のアサコの話です。

象は本来群れを作って生きる動物ですが、アサコはずっと一頭だけで暮らしていました。

しかも環境がいいとは言えない田舎の動物園で変化のない毎日を送り、人間だったら精神的に耐えられなくなっただろう環境にいたアサコは、それにも関わらずとびきりやさしい目をしていたというのです。

歳を取り、重い体重を支える足の裏がひどく化膿し、痛くてたまらない時には、長い鼻を扉の鉄棒に巻き付けて、それを支えに立っていたというのです。

激痛が走っているはずなのに、アサコは優しい目をして遠くを見つめます。

淡々と足の痛み、傷を受け入れているように見えたというのです。

そして象らしく象の命を生き抜いて56歳で死にました。

なぜ耐えられないような痛みにも関わらず、アサコはとびきりのやさしい目を持ち続けることができたのでしょうか。

私たちがその立場に立ったら、まずできないでしょう。

坂東さんはアサコの痛みを黙って受け入れる姿に、神々しさを見たといいます。

神々しいは、厳かで気高いという意味です。

漢字で書くと神さまの神を2回書いて、神々しいです。

自分を持つ人間は、自分の力で決して神々しくなれないということです。

理想的な人間の生き方があるとしたら、それは気高さと品性を持つことです。

自分を捨てきれない人間は、自分の力で厳かに気高く生きられないのです。

そこに人間と他のすべての生き物、命あるものとの決定的な違いがあります。

大切なのは、ここからです。

それでも人間が自分の人生をブレずに人間らしく生きるためには、イエス・キリストの存在が必要だというのがキリスト教です。

イエスが十字架にかかられたのは、象のアサコがブレることなく、象として生きたように、人間がブレることなく生きるためだということです。

十字架の上で痛みに耐え、遠くを見るイエスの目は優しさであふれているのです。

自分の力で捨てることのできない「自分」、私を悩まし苦しめる私を、イエスが十字架にかかることにより、取り去ってくださっているのです。

それによって私たちは私たちらしく生きることが可能になっているのです。

私たちはまさに生かされているのです。

このように、生かされて今を生きる私たちです。

今日という日をまず精一杯生きていきましょう。

与えられた課題に淡々と取り組みましょう。

与えられた命と存在をただ自分のためだけに使うのではなく、隣人のために、弱い立場に生きる人のために、そしてこの社会を少しでも生きやすいものにするために使う自分でありたいと思います。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ