清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2020/09/01
今日本で一番よく読まれている絵本はヨシタケシンスケさんの作品です。
その中の1冊に「それしかないわけないでしょう」があります。
最初のページで小さな女の子が窓の外の雨をにらみながら「おとうさんは きょうは はれるって いってたけど、…おとなのいうことは けっこう はずれるな」といいます。
この場合の「おとな」はお父さんだけのことではありません。
「おとな」には、お母さん、幼稚園や学校の先生などの身近な存在から、テレビや新聞の評論家、政治家、コメンテーターと呼ばれる人までいます。
全部のおとなに共通していることは、これから世の中は大変なことになる、未来は大変だと言いたがることです。
学校から帰ってきたお兄ちゃんが、「食べ物がなくなったり、病気が流行したり、戦争が起こったり、地球が壊れたりする。そんな“未来”がやってくる」と友だちがおとなから聞いた話をしました。
女の子はお兄ちゃんの話にショックを受け、助けを求めるようにおばあちゃんの部屋に行きました。
不安でいっぱいになった女の子におばあちゃんは愉快そうに答えてくれました。
「だいじょうぶ みらいがどうなるかなんて だれにもわからないよ たいへんなことだけじゃなくて たのしいことも おもしろいことも たくさんあるんだから おとなは すぐに みらいは きっとこうなる とか だからこうするしかない とかいう でも たいていあたらないのよ」。
おばあちゃんの言葉でなるほどと思わされるのは「あたらないのよ」です。
「当たる当たらない」は○か×か、白か黒か、という二者択一や三択という答えが決まっている場合に言えることです。
でも世の中の問題はたいていが二者択一や三択のように答えが決まっていません。
白か黒だけでなく、青や赤、緑と答えが無数にあることも多いのです。
未来も1つに決まっているわけではなく、いくつも考えられるのです。
おばあちゃんはこの言葉でおとなを否定したのではありません。
それを参考にして自分で考えることが大事だといったのです。
そして、女の子は自分の未来を自分で思い描いてみました。
今朝の聖書の箇所はイエスさまが目の不自由な人を見られた、そこから始まります。
当時は子どもが不自由さをもって生まれた場合、それはその人か身近な人が神に背いたための罰だと言われていたので、弟子たちは誰の罪のせいかと質問をしました。
しかし、イエスの答えは弟子たちが考えもしないことでした。
イエスは、目が不自由なのは不幸ではなく幸せのしるしとさえ言ったのです。
この答えにイエスの思いが詰まっているように思います。
弟子たちの目の不自由な人についての質問に欠けているのは人を愛する気持ちです。
イエスは弟子たちに物事を考えるときに、そこに愛があるのかないのかが、何より大切と言われているのです。
今日から2学期が始まります。
長い休みの後のスタートは何かしら辛く嫌なものです。
「あ~あ」とため息をつきたくなることもあります。
そういう思いで頭がいっぱいになると、自分を悪い方向へ追い込んでしまいます。
2学期を否定的に捉え暗く考えることで何が生まれるでしょうか。
絵本「それしかないわけないでしょう」の女の子は自分の頭で未来を考えました。
同じように自分の頭で自分の2学期を考えると、いくつもの楽しい未来、明るい出来事が思い浮かんでくるわけです。
私たちが自分を愛すること、そして周りの人を愛すること、それをベースに考えることによって、重いものが軽くなり、暗い心が明るくなり、そして未来がぱっと開けるような言葉に出会い、人に出会えるとイエスは教えてくれているのです。
イエスの言葉を素直に受け止めることから2学期をスタートしたいと願います。
それによって今から始まる一日一日が、幸せな時間、成長の時になるのです。